外京

唐の長安にはない平城京特有の構造で、左京の東側に張り出して設けられた区画を何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
ならまち(Wikipedia)

外京 (げきょう)

710年〜

【概説】
奈良時代の都である平城京において、左京の東側に張り出す形で拡張された不整形な都市区画。藤原氏の氏寺である興福寺や、飛鳥から移転した元興寺などの大寺院が置かれ、天平文化や仏教政治の重要な舞台となったエリアである。

平城京の不整形な構造と外京の誕生

710年(和銅3年)に元明天皇によって遷都された平城京は、唐の都である長安城を模範とした条坊制の都城である。しかし、完全な長方形の対称的な構造を持つ長安城とは異なり、平城京は東側に「外京(げきょう)」と呼ばれる突出部を有しており、左右非対称な歪んだ形をしている点が大きな特徴である。

外京が設けられた大きな要因の一つは地形である。平城京が置かれた奈良盆地北端は、東側に春日山や若草山などの東山中が迫っており、このなだらかな傾斜地を取り込む形で区画が東へと拡張された。また、旧都である藤原京から官人や平民、さらには有力寺院を移転させるにあたり、当初の対称的な都市プランだけでは収容スペースが不足したため、東側の土地を急遽組み込んだとする説が有力である。

大寺院の配置と藤原氏の権力

外京には、政治的・宗教的に極めて重要な大寺院が配置された。その代表格が、藤原不比等によって飛鳥から移転された藤原氏の氏寺である興福寺である。興福寺は外京の高台(現在の奈良公園周辺)に位置し、天皇の居所である平城宮を東側から見下ろすような位置にそびえ立っていた。これは、奈良時代における藤原氏の圧倒的な政治的影響力を視覚的に示すものでもあった。

さらに、蘇我氏の氏寺であった法興寺(飛鳥寺)が移転した元興寺なども外京に建設され、これらは「南都七大寺」として天平文化の仏教興隆を支えた。このように外京は、単なる郊外の住宅地ではなく、国家仏教と有力貴族の権力が結びついた、平城京におけるもう一つの極めて重要な都市核心部として機能していたのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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