渤海使 (ぼっかいし)
【概説】
8世紀前半から10世紀前半にかけて、中国東北部の渤海国から日本へ派遣された公式の外交使節。当初は新羅や唐に対抗するための軍事・外交的同盟の締結を主目的としたが、東アジア情勢の安定に伴い、次第に交易や漢詩文を介した文化交流を中心とする使節へと変質した。
東アジアの緊張関係と新羅包囲網の結成
渤海使の初来日は727年(神亀4年)、渤海王の武芸(大武芸)の時代に、高仁義らの一行が出羽国(現在の秋田県・山形県付近)に漂着したことに始まる。当時、中国東北部に興った高句麗系の遺民国家である渤海は、南隣の新羅や大国・唐との対立関係にあり、孤立を避けるための軍事的な同盟相手を求めていた。一方の日本(奈良朝廷)も、朝鮮半島における新羅との関係が急速に悪化しており、両国の利害が一致したことで通交が成立した。
日本側は、渤海をかつて親密な関係にあり唐・新羅連合軍に滅ぼされた「高句麗の再興国」と認識し、日本に従属する朝貢国(外国でありながら日本の天皇を君主と仰ぐ国)として厚遇した。ここに、新羅を東西から挟み撃ちにする形での新羅包囲網が形成され、一時は日本と渤海による新羅征討計画が具体的に浮上するほどの軍事的連携関係が保持された。
交易の活性化と財政負担による制限
9世紀に入ると、唐と渤海、新羅の間の緊張が緩和され、軍事的な同盟を結ぶ政治的意義は薄れていった。これに伴い、渤海使の性格は政治・軍事交渉から、高級品を取引する経済・文化交流へとシフトしていった。渤海側からは毛皮(テンやヒグマ)、薬用人参、蜜蝋などがもたらされ、日本からは織物(絹・綿)や黄金、水銀などが返礼として与えられた。これらの輸入品は平安貴族の間でステータスシンボルとして珍重された。
しかし、朝貢外交の形式上、日本側は渤海からの貢納品に対して、その数倍の価値にのぼる「回賜(返礼品)」を支給し、さらには使節団の滞在費を全面的に負担しなければならなかった。この莫大な出費は平安朝廷の財政を圧迫するようになり、日本側は渤海使の来日回数を「12年に1回」に制限する措置(年紀の制)を設けるなど、次第に通交の抑制へと舵を切ることとなった。
鴻臚館での文化交流と菅原道真
渤海使は日本海を渡って主に能登国(石川県)や佐渡国(新潟県)、出羽国などに漂着・着岸し、そこから陸路、または瀬戸内海を経て、大宰府の鴻臚館や平安京の外交施設へと案内された。そこでは、日本の文人貴族と渤海使との間で活発な漢詩の贈答が行われた。特に、渤海使の首領(大使)には優れた文人が選ばれることが多く、日本の知識階級にとって彼らとの交流は、大陸の最新の唐風文化や学問に触れる貴重な機会であった。
平安時代中期の文人政治家である菅原道真も、渤海大使の裴頲(はいてい)らと深い親交を結び、数多くの漢詩を交わしたことが記録されている。このように、渤海使は古代日本における対外交流の重要な窓口であり、国風文化の形成前夜における漢文学の発達や、平安貴族の教養形成に多大な影響を及ぼした。