地子 (じし)
【概説】
古代から中世の日本において、土地の所有者が耕作者に土地を貸し出すことで徴収した地代(小作料)。律令制の動揺期である奈良時代に起源を持ち、のちの中世荘園公領制における多層的な土地支配構造を支える経済的基盤となった税。公的な土地から徴収される官地子と、初期荘園などの私有地から徴収される私地子に大別される。
奈良時代における律令制の変容と「地子」の発生
奈良時代の日本は、すべての土地と人民を天皇が支配する公地公民制を原則としていた。しかし、人口の増加に伴って口分田が不足し、班田収授法の維持が困難になると、政府は墾田永年私財法(743年)を制定して土地の私有を認める方針へと転換した。このプロセスにおいて、土地を貸し付けて賃料を得る「地子」の仕組みが誕生することとなる。
当時、班田(口分田など)を配ったあとに残った公田(乗田など)は、希望する農民に1年期限で賃貸され、その収穫の5分の1(のちに10分の1)が官地子(かんじし)として国家(太政官や国衙)に徴収された。一方で、勢力を伸ばした貴族や大寺社は、墾田永年私財法を利用して大規模な未開地の開発を行い、初期荘園を形成した。彼らは周辺の農民や、重税から逃れてきた浮浪・逃亡民を労働力として集め、開発した土地を貸し付けて私地子(しじし)を徴収した。このように、地子の発生は律令体制の崩壊と、個人の土地私有が実質化していく過程と深く結びついていたのである。
中世荘園公領制への展開と「加地子」の出現
平安時代から鎌倉・室町時代に進むと、荘園公領制と呼ばれる独自の土地支配体制が確立された。この時代において、地子は荘園領主(本家・領家)が徴収する「年貢」と並び、重要な地代としての地位を占め続けた。さらに中世特有の現象として、土地の権利が細分化される「職(しき)」の体系が発達すると、地子の意味合いもより複雑化した。
現地を実質的に支配する名主(在地領主)は、荘園領主へ納める年貢とは別に、実際に田畑を耕作する下人や作手(農民)から、独自の地代を徴収するようになった。これを加地子(かじし)と呼ぶ。加地子は名主の重要な経済基盤となり、中世社会における二重、三重の多層的な土地搾取構造を生み出す原因となった。この中世的な地子・加地子の関係は、戦国時代を経て、豊臣秀吉による太閤検地において「一地一作人の原則(一つの土地に一人の耕作者を定め、中間搾取を排除する)」が確立されるまで、長きにわたって日本の農村社会を規定し続けた。