紫香楽宮 (しがらきのみや)
【概説】
聖武天皇が奈良時代中期の天平年間に、近江国甲賀郡に営んだ都。恭仁宮や難波宮に続く「彷徨」と呼ばれる度重なる遷都の中で造営され、東大寺大仏の源流となる盧舎那仏造立の詔が発布されたことで知られる。
聖武天皇の彷徨と紫香楽宮の造営
奈良時代中期の天平期は、藤原広嗣の乱(740年)や天平の疫病大流行(天然痘)など、政情不安や社会の動揺が激化した時期であった。こうした未曾有の危機に直面した聖武天皇は、平城京を離れ、恭仁宮(山背国)、難波宮(摂津国)へと遷都を繰り返した。この一連の「彷徨(ほうこう)」と呼ばれる流浪的な遷都の過程において、742年(天平14年)に近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)で造営が開始されたのが紫香楽宮である。当初は離宮としての位置づけであったが、聖武天皇はこの地を深く気に入り、745年には正式な首都(新京)としての整備が進められた。
大仏造立の詔と行基の登用
紫香楽宮が日本史上において極めて重要な歴史的舞台となったのは、743年(天平15年)10月にこの地で盧舎那仏(大仏)造立の詔が発せられたことによる。仏教の力によって国家の安泰をはかる「鎮護国家」の思想に基づき、天皇自らが発願したこの大事業は、紫香楽宮の近くに建立された甲賀寺を舞台に開始された。この大仏造立にあたっては、当時、朝廷から弾圧されながらも民衆の間で絶大な支持を得ていた僧・行基が勧進(資金や労力を集める責任者)として起用された。これにより、国家事業に多くの民衆のエネルギーが結集される体制が整えられ、実際に甲賀寺では大仏の骨組みとなる木枠の製作などが進められた。
相次ぐ災異と平城京への帰還
745年(天平17年)1月、紫香楽宮は正式に首都と定められたものの、その直後から数々の災難が新都を襲った。周辺の山林で大火災が相次いだほか、近畿地方を震源とする大地震が発生し、紫香楽の地は不穏な空気に包まれた。これらは無理な遷都と大土木工事に対する天譴(天の怒り)と解釈され、相次ぐ遷都によって財政的・肉体的に疲弊していた貴族や民衆の不満は頂点に達した。この状況に直面した聖武天皇は、同年5月に紫香楽宮の維持を断念し、平城京へと還都した。甲賀寺での大仏造立も中止となり、その計画は平城京の東大寺へと引き継がれることとなった。紫香楽宮の短命に終わった歴史は、律令国家における平城京の地政学的・象徴的な重要性をあらためて証明する結果となった。