階級の発生 (かいきゅうのはっせい)
【概説】
弥生時代において、水稲耕作の普及にともなう余剰生産物の発生や集落間の戦争を通じ、社会が支配者(首長)と被支配者の階層へと分化した現象。縄文時代の比較的平等な共同体社会から、不平等な階級社会へと移行する日本社会史上の巨大な転換点である。
稲作の伝来と「余剰生産物」による貧富の差
縄文時代の日本列島は、狩猟・採集・漁労を基盤とした社会であり、獲得した食料を長期保存することが困難であったため、共同体内での平等な分配が原則であった。しかし、紀元前10世紀頃から始まったとされる弥生時代に入り、本格的な水稲耕作(稲作)が伝来すると、社会構造は激変した。
米は栄養価が高いうえに乾燥させることで長期保存が可能であった。このため、土地の肥沃さや灌漑技術の違い、あるいは気候の変動などによって収穫量に差が生じると、それがそのまま「余剰生産物」の多寡となって現れた。蓄えを持つ富裕な者と、そうでない困窮する者との間に貧富の差が生まれ、これが共同体内における発言力や権力の格差、すなわち初期の階層化をもたらす直接の契機となった。
集落間の「戦争」と支配・被支配関係の形成
稲作を行うためには、水利権の確保や肥沃な耕作地の独占が不可欠である。これにより、限られた資源をめぐる集落(ムラ)同士の衝突や対立が日常化し、日本列島に本格的な「戦争」がもたらされた。この時代を象徴する遺跡として、周囲に深い堀を巡らせた環濠集落(吉野ヶ里遺跡など)や、軍事的に有利な高地に築かれた高地性集落が挙げられるほか、遺跡からは石鏃や銅剣などの武器によって傷つけられた人骨が多数出土している。
戦争の激化は、集落を率いる軍事的な指導者の台頭を促した。さらに、近隣の集落を征服・統合する過程で、勝者は支配者となり、敗者は隷属させられるという支配・被支配の関係が固定化していった。中国の史書『魏志』倭人伝に記された、下戸(一般庶民)が大人(支配層)に出会うと平伏したという記述や、奴隷を意味する「生口(せいこう)」の存在は、この階級差が制度として定着していたことを如実に物語っている。
首長の権威化と「クニ」への発展
支配者となった首長(王)たちは、単に武力で民衆を従えるだけでなく、自らの権力を宗教的に正当化しようとした。彼らは中国大陸や朝鮮半島から流入した青銅器(銅鐸、銅剣・銅矛・銅戈)を入手し、これらを豊作を祈る共同体の祭祀に用いることで、神との仲介者としての特権的な地位を築いた。
こうした首長たちの絶対的な権威は、死後の埋葬方法にも顕著に現れている。一般の民衆が共同墓地に葬られたのに対し、首長は多大な労働力を動員して造られた方形周溝墓や墳丘墓(岡山県の楯築遺跡など)に、前漢鏡や鉄製武器などの豪華な副葬品とともに埋葬された。この「死者の扱いにおける格差」の視覚化こそが、階級社会が完全に成立した証左であり、のちの古墳時代における巨大前方後円墳の造営、ひいてはヤマト政権という広域国家の誕生へと繋がっていくこととなる。