橘奈良麻呂 (たちばなのならまろ)
【概説】
奈良時代中期に活躍した貴族。政権首班であった右大臣・橘諸兄の子であり、急速に台頭してきた藤原仲麻呂に危機感を抱いて政変を企てたが、事前に密告されて失敗し、獄死した人物。
橘氏の政権獲得と奈良麻呂の自立
橘奈良麻呂の父である橘諸兄(葛城王)は、光明皇后の異父兄にあたり、藤原四兄弟が天然痘で相次いで病死した後に政権を掌握した。諸兄は聖武天皇を支え、唐から帰国した吉備真備や玄昉を登用して政権を維持した。このような父の権勢を背景に、奈良麻呂も順調に昇進を重ね、若くして頭角を現した。しかし、聖武天皇が東大寺大仏の建立など大規模な国家事業を推し進める中、過度な造作による財政逼迫や農民の疲弊は深刻化し、政権の安定性には徐々に陰りが見え始めていた。
藤原仲麻呂の急速な台頭と対立
聖武天皇が譲位し、孝謙天皇が即位すると、皇太后となった光明子の後盾を得た藤原仲麻呂(式家)が急速に台頭する。仲麻呂は皇后宮職を改組した「紫微中台」の長官に就任し、軍事権と行政権を握って事実上の最高権力者となった。これに伴い、橘諸兄の政治的影響力は低下し、755年には酒宴の席での失言を密告され、翌年に引退を余儀なくされる。父の失脚と橘氏の没落を目の当たりにした奈良麻呂は、藤原仲麻呂による権力独占に強い危機感を抱き、仲麻呂排除の意志を固めていった。
橘奈良麻呂の変とその結末
757年、橘諸兄が没すると、奈良麻呂は仲麻呂打倒の計画を具体化させた。彼は、仲麻呂の専横に不満を持つ大伴古麻呂や佐伯古麻呂といった有力武官、さらに皇族の道祖王や黄文王らを抱き込み、仲麻呂を襲撃して孝謙天皇を廃立するクーデター(橘奈良麻呂の変)を企てた。しかし、実行直前に謀略が密告によって漏洩し、奈良麻呂をはじめとする首謀者たちは捕らえられた。奈良麻呂は厳しい尋問と拷問(杖の下)を受け、獄死した。この政変の鎮圧により藤原仲麻呂の独裁体制は盤石なものとなり、後に淳仁天皇を擁立して「恵美押勝」と名乗り、絶対的な権力を振るう契機となった。