藤原百川 (ふじわらのももかわ)
【概説】
奈良時代末期に活躍した、藤原式家出身の政治家。称徳天皇崩御後の皇位継承問題において、道鏡の台頭を阻止して天智系の光仁天皇を擁立し、さらに桓武天皇の擁立にも決定的な役割を果たした宮廷政治の策士。
称徳朝の終焉と天智系への皇統転換
奈良時代後半、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)のもとで僧の道鏡が法王として権勢を振るい、皇位を窺う事態(宇佐八幡宮神託事件)にまで発展した。藤原百川は、父・藤原宇合(式家始祖)の血を引く政治家であり、道鏡の勢力伸長に対して強い危機感を抱いていた。
770年に称徳天皇が後継者を指名せぬまま崩御すると、百川は兄の藤原永手(北家)らとともに素早く動き、道鏡を左遷して排斥した。そして、天武系の皇統が断絶したことを受け、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)を新たな天皇として擁立した。これにより、壬申の乱以来続いていた天武系の皇統から、天智系の皇統へと100年ぶりに大転換を果たすこととなった。
井上内親王廃后と山部親王の立太子
光仁天皇の即位後、皇后には聖武天皇の皇女である井上内親王、皇太子にはその間に生まれた他戸親王が立てられた。これは天武系の血統を引く正統な継承順位であったが、百川ら式家はこれに反対し、光仁天皇の長子でありながら渡来系氏族(和氏)の母を持つ山部親王(後の桓武天皇)の擁立を画策した。
772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したという密告(百川による陰謀説が有力視されている)により、井上内親王は皇后を、他戸親王は皇太子をそれぞれ廃された。さらに翌年には山部親王が皇太子に立てられ、幽閉された母子はのちに同日に急死するという悲劇的な最期を遂げた。百川の強引とも言える主導により、新たな皇統としての桓武天皇の誕生が決定づけられたのである。
藤原式家の主導権確立とその後の影響
百川の尽力により、藤原氏の中では南家や北家を抑えて藤原式家が主導権を握ることに成功した。百川自身は山部親王の即位(桓武天皇の即位は781年)を見届けることなく、779年に病没したが、彼の敷いた路線は桓武天皇による長岡京・平安京への遷都や、積極的な律令国家の再建(軍事と造作)へと引き継がれることとなった。
しかし、百川が主導した強引な皇位継承は、井上内親王らの怨霊への恐怖を生み、平安初期の御霊信仰の源流となった。また、式家の繁栄はのちに百川の兄・縄麻呂の子である藤原薬子らが引き起こした「平城太上天皇の変(薬子の変)」による式家の没落へとつながり、藤原氏の主流派は北家(藤原冬嗣ら)へと移っていくこととなる。