戒壇院 (かいだんいん)
【概説】
正式な僧侶として守るべき規範である「戒律」を授けるための専用の施設。唐の高僧である鑑真の来日を契機として東大寺に創設され、国家による僧侶の統制と仏教秩序の確立において中心的な役割を果たした。
戒律の未整備と鑑真の招聘
奈良時代初期の日本仏教においては、正式な僧侶を認定するための「受戒(戒律を授けられること)」の制度が十分に整っていなかった。当時は税逃れなどを目的として勝手に出家する私度僧が急増し、社会秩序や国家財政を揺るがす深刻な問題となっていた。このような状況を打破し、仏教を国家統制下に置くため、聖武天皇は律令国家の秩序に適う「戒律」を日本に伝えることのできる正式な伝戒師(指導者)を唐に求めた。これに応じて幾多の苦難や盲目化を乗り越え来日したのが、唐の高僧である鑑真であった。
天下三戒壇の設立と制度化
天平勝宝6年(754年)、来朝した鑑真は東大寺大仏殿の前に仮設の戒壇を設け、聖武上皇や光明皇太后らに授戒を行った。これが日本における正規の授戒の始まりである。翌年には東大寺の西方に常設の戒壇院が建立された。さらに国家は、僧侶の地方受戒を可能にするため、東大寺(大和国)のほかに下野国の薬師寺(栃木県)、筑前国の観世音寺(福岡県)の計3箇所に戒壇を整備した。これらは「天下三戒壇」(本朝三戒壇)と称され、このいずれかで受戒しなければ公認の僧侶(官僧)として活動することは認められず、日本の仏教界における独占的な権威となった。
平安仏教への影響と「大乗戒壇」の相克
奈良時代を通じて天下三戒壇は国家による仏教統制の根幹として機能したが、平安時代初期にこれに対抗する動きが現れた。天台宗の開祖である最澄は、奈良の既成仏教(南都六宗)が重んじる小乗戒(四分律)に対抗し、大乗仏教の精神に基づいた独自の「大乗戒壇」を比叡山に設立することを求めた。南都(奈良)の僧侶たちは、三戒壇の独占権を脅かすものとして激しく反発したが、最澄の没後直後に嵯峨天皇によって比叡山への大乗戒壇設置が公認された。これにより天台宗は独立を果たし、後の鎌倉新仏教を生み出す思想的苗床となった。