淡海三船 (おうみのみふね)
【概説】
奈良時代後期に活躍した貴族であり、当代随一と謳われた最高峰の文人。天智天皇の玄孫にあたる出自で、優れた漢文学の知識を駆使して鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を著した。また、初期の歴代天皇に対して現在も用いられる「漢風諡号」を一括して撰進した人物としても知られる。
天智天皇の血統と波乱の官人生活
淡海三船は、大友皇子(弘文天皇)の曽孫にあたる。当初は御船王(みふねのおう)と名乗る皇族であったが、天平勝宝3年(751年)に臣籍降下して淡海真人(おうみのまひと)の姓を賜った。若年期から聡明で、儒教の経典や歴史書を広く修め、特に漢文学に抜きん出た才能を示した。しかし、天平宝字元年(757年)に起きた橘奈良麻呂の乱(橘奈良麻呂の変)において朝廷を誹謗した疑いをかけられ、一時禁錮されるなど、その生涯は政治的な波乱に満ちていた。のちに赦免されて官界に復帰すると、式部大輔や大学頭、文章博士などの要職を歴任し、当時の文壇の首領として重きをなした。
『唐大和上東征伝』と漢文学における事績
文人としての三船の代表作が、宝亀10年(779年)に著した『唐大和上東征伝』(とうだいわじょうとうせいでん)である。これは、5度の渡海失敗や失明という苦難を乗り越えて来日し、日本の戒律制度を確立した唐の僧・鑑真の伝記である。三船は鑑真の弟子たちの依頼を受け、当時の流行であった四六駢儷体(しろくべんれいたい)と呼ばれる華麗な漢文体を用いてその苦難に満ちた旅路を描き出した。この書は、鑑真の生涯や当時の日唐交流の実態を伝える第一級の史料であると同時に、奈良時代漢文学の最高峰として高く評価されている。また、現存最古の日本漢詩集である『懐風藻』の編纂に関与したとする説も有力視されている。
「漢風諡号」の撰進と律令国家への貢献
淡海三船のもう一つの大きな業績が、歴代天皇に対する漢風諡号(かんぷうしごう)の選定である。それまで、日本の歴代天皇は「天国排開広庭天皇(欽明天皇)」などの和風諡号で呼ばれていたが、三船は中国の諡法(生前の行いに基づいて死後に贈る名)に倣い、初代の神武天皇から元正天皇(あるいは光仁天皇)に至る歴代天皇に対し、漢字2文字の漢風諡号(例:「神武」「天智」「天武」「持統」など)を一括して撰進したとされている。これは、単なる呼称の整理にとどまらず、日本が中国に比肩する東アジアの本格的な律令国家・儒教国家であることを内外に示す政治的な意義を宿した事業であった。