大伴旅人

奈良時代前期に大宰帥として九州に赴任し、邸宅で「梅花の宴」を開いて山上憶良らと交流し、酒を讃える歌などを残した貴族・歌人は誰か?
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重要度
★★★

大伴旅人 (おおとものたびと)

665年 – 731年

【概説】
奈良時代前期に活躍した名門大伴氏の貴族であり、万葉期を代表する歌人の一人。大宰帥として大宰府に赴任中、山上憶良らとともに「筑紫歌壇」を形成した。彼の開いた「梅花の宴」は、日本の元号「令和」の出典となったことでも知られている。

名門氏族の棟梁と政治的挫折

大伴旅人は、古代よりヤマト王権の武門を担ってきた名門・大伴氏の出身である。父は壬申の乱で功績を挙げた大伴安麻呂であり、旅人も一族の棟梁として朝廷で重きをなした。養老2年(718年)には中納言に昇進し政治の中枢で活躍するが、この時期は藤原不比等の子である藤原四兄弟が台頭しつつある時代でもあった。

神亀4年(727年)の末頃、旅人は大宰帥(だざいのそち、大宰府の長官)に任命され、九州へ赴任することになる。この人事の背景には、朝廷内で権力基盤を確立しようとする藤原氏による、他氏族排斥の意図(事実上の左遷)があったと考えられている。実際、旅人が九州に滞在中の神亀6年(729年)には、中央で長屋王の変が起こり、政界の重鎮であった皇族の長屋王が藤原氏によって自害に追い込まれている。

大宰府赴任と「筑紫歌壇」の形成

政治的な不遇をかこっていた大宰府での生活であったが、文化的・文学的な面においては、この時期が旅人の最盛期となった。任地では、筑前守として赴任していた山上憶良や、観世音寺の造営に従事していた沙弥満誓(さみまんせい)らと親交を深め、活発な文芸活動を展開した。

彼らを中心とした大宰府での文化的サロンは、のちに「筑紫歌壇」と称されるようになる。中央の政治抗争から離れた九州の地で、外交の窓口であった大宰府ならではの大陸の最新の文化や思想に触れながら、独自の豊かな文学世界が育まれたのである。

「梅花の宴」と元号「令和」への繋がり

旅人の業績として最も著名なのが、天平2年(730年)の正月に彼自身の邸宅で催された「梅花の宴」である。当時の日本において、梅は中国から伝来したばかりの珍しい植物であり、最先端の唐文化の象徴であった。

この宴では、大宰府の官人たちが梅の花を主題にして32首の和歌を詠んだ。この和歌群の前に置かれた漢文の序文(梅花歌三十二首并せて序)に記された「初春の月にして、気淑く風らぎ…」という一節が、現代の日本の元号「令和」の出典となった。この序文の筆者は諸説あるが、宴の主催者で高い漢学の教養を持っていた旅人自身の手によるものとする見方が有力である。

歌風の特徴と老荘思想

『万葉集』には旅人の歌が約80首収められており、その大半が大宰府赴任以降に詠まれたものである。赴任直後に愛妻(大伴郎女)を亡くした悲しみを詠んだ哀切な挽歌のほか、「讃酒歌(酒を讃むる歌)」と呼ばれる十三首の連作がとくに知られている。

讃酒歌には、「中途半端に賢ぶるよりも、酒を飲んで酔い泣きするほうがましだ」といった、現世の価値観から超然とする態度が見られる。これは中国の老荘思想(道家思想)の影響を強く受けたものであり、政治的挫折や妻の死といった苦悩から逃避し、酒に心の平穏を求めようとする旅人の人生観が色濃く反映されている。

天平2年(730年)末、旅人は大納言に任じられて帰京を果たしたものの、翌天平3年(731年)に病没した。彼の豊かな文学的才能は、息子である大伴家持へと受け継がれ、のちの『万葉集』編纂へと結実していくことになる。

万葉集注釈〈巻第5〉 (1959年)

万葉集の深淵を解き明かす、重厚なる校訂と注釈が凝縮された学術的価値極めて高い一冊。

大伴旅人・山上憶良―憂愁と苦悩 (日本の作家 (2))

万葉の巨星たちが抱いた孤独と葛藤を、時代背景と共に鮮やかに浮かび上がらせる批評の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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