散楽 (さんがく)
【概説】
奈良時代の天平年間を中心に、唐から日本へと伝来した大衆的な雑芸。奇術や曲芸、滑稽な物真似など多種多様な身体技芸を含み、のちの日本の中世芸能である猿楽(能・狂言)の直接的な源流となった。
古代アジアの芸能の流入と「散楽戸」の設置
散楽のルーツは古代中国の漢代に盛んとなった「百戯(ひゃくぎ)」と呼ばれる雑多な芸能にあり、これが西域(中央アジア)などの影響を受けながら唐代に「散楽」として体系化された。日本には遣唐使の往来が活発であった奈良時代の天平年間(8世紀前半)に、仏教文化や大陸の最新技術とともに伝来したとされる。国家的な儀式や祭祀で演奏された荘厳な雅楽が宮廷音楽として位置づけられたのに対し、散楽はその世俗的・娯楽的な性格から、庶民や貴族の私的な宴席などで広く愛好された。
朝廷は当初、これら大陸系芸能の伝習・保護のために、宮内省の雅楽寮(うたのつかさ)に「散楽戸(さんがくこ)」を置き、専門の技術者を囲い込んで管理下に置いた。これにより、天平勝宝4年(752年)に行われた東大寺大仏開眼供養会など、国家的な大行事の舞台でも雅楽とともに散楽が盛大に披露されたことが記録に残されている。
散楽の民衆化と「猿楽」への変容
平安時代に入ると、朝廷の財政再建や官制改革の一環として、延暦13年(794年)に桓武天皇によって散楽戸が廃止された。国家の庇護を失った散楽師(芸人)たちは下野し、寺社の境内や市場、祭礼の場などの民間へと活動の場を移すことになる。この過程で、散楽は日本古来の土着芸能や民俗信仰と融合し、より大衆に親しみやすい芸能へと変貌を遂げていった。
民衆の間に定着した散楽は、言葉が訛り、あるいは芸風の変化を反映して、平安中期頃から「猿楽(さるがく)」と呼ばれるようになる。初期の猿楽は、散楽の持っていたアクロバティックな「曲芸」の要素と、滑稽な「物真似(物まね)」や「口上」の要素を継承していたが、次第に劇的な要素を強めていくこととなる。
能・狂言へと至る日本芸能史における意義
散楽から発展した猿楽は、鎌倉時代から室町時代にかけて、寺社のお抱え芸能(神事猿楽)として独自の進化を遂げた。その中から、物真似の滑稽味を洗練させた「狂言」と、歌舞や悲劇的な物語性を重視した「能(能楽)」が誕生することになる。室町時代に観阿弥・世阿弥親子によって大成された能楽は、現代にいたるまで日本の伝統芸能の象徴として受け継がれている。
このように散楽は、単に古代の一過性の流行芸能にとどまらず、大陸の多様な身体表現やユーモアを日本に導入し、日本の舞台芸術・演劇史の祖層を形成した極めて重要な歴史的役割を果たしたのである。