太陽
【概説】
明治中期から昭和初期にかけて博文館より発行された、近代日本初の本格的な総合雑誌。日清戦争後のナショナリズムの高揚を背景に創刊され、主筆の高山樗牛らが唱えた「日本主義」の思想的拠点として、明治後期の言論界や言論市場を大きくリードした。
「総合雑誌」の創出と博文館のメディア戦略
『太陽』は、明治時代を代表する大出版社であった博文館(大橋佐平・新太郎親子が経営)によって、1895(明治28)年1月に創刊された。日清戦争の勝利に向けて国論が沸騰する中、博文館がそれまで発行していた『日本大家論集』や『文芸倶楽部』など、数多くの専門雑誌を統合し、政治・経済・理学・文学・家庭・美術など、あらゆるジャンルを網羅した日本初の本格的な「総合雑誌」として誕生した。
当時としては画期的な大冊でありながら、安価で大量供給を行う博文館の近代的な流通システムによって、知識層から一般大衆に至るまで広く読まれた。この成功は、のちの『中央公論』や『改造』といった総合雑誌のビジネスモデルの先駆となった。
高山樗牛と「日本主義」の鼓吹
『太陽』の思想的・言論的影響力を決定づけたのが、若くして主筆に就任した思想家・評論家の高山樗牛である。樗牛は日清戦争後の欧化主義への反発や国家意識の台頭を捉え、1897(明治30)年頃から同誌上で「日本主義」を提唱した。
この日本主義は、日本の伝統的なナショナリズムを基盤とし、国家の自主独立と対外的な発展を肯定する言論であり、三国干渉以降の対露緊張が高まる社会心理に深く合致した。樗牛の情熱的で雄渾な文体は当時の青年層を熱狂させ、同誌は明治後期における国家主義言論の牙城として機能した。
言論・文学の発展と昭和期の終焉
『太陽』は政治・思想分野にとどまらず、文芸の領域でも極めて重要な役割を果たした。坪内逍遥や幸田露伴、尾崎紅葉らの寄稿のほか、明治末期には自然主義文学をめぐる文学論争の主たる舞台ともなった。
しかし、大正期に入ると社会の関心は「大正デモクラシー」へと移行し、民主主義や社会主義思想を積極的に紹介した『中央公論』や『改造』などの競合誌が台頭する。これに対して、保守的な国民的立場を維持し続けた『太陽』は次第にその新鮮さを失い、読者層を奪われていった。関東大震災による打撃も重なり、1928(昭和3)年2月号をもって通巻531冊で廃刊となり、その歴史的役割を終えた。