鞍作鳥(止利仏師) (くらつくりのとり(とりぶっし)
【概説】
飛鳥時代を代表する渡来系の仏師。法隆寺金堂釈迦三尊像や飛鳥寺本尊の飛鳥大仏を制作し、大陸の北魏様式を伝承した日本初期の仏教彫刻(飛鳥彫刻)の確立者である。
渡来系技術者としての出自と鞍作氏
鞍作鳥(止利仏師)は、継体天皇の時代に渡来したとされる司馬達等(しばたちと)の孫にあたる。父の鞍作多須奈(くらつくりのたすな)も用明天皇のために寺や仏像を造ることを誓ったとされる人物であり、一族は代々、優れた金属工芸技術を有する技術者集団(鞍作部)であった。当時の日本は大陸からの先進技術の導入を急いでおり、鞍作氏はこうした高度な金属加工技術を活かして、仏像製作という国家的な大事業の中心を担うこととなった。彼らの持つ工芸技術が、日本初期の仏教受容期において重要な役割を果たしたことは歴史的に極めて意義深い。
北魏様式の導入と代表的仏像の制作
鞍作鳥の作風は、中国の南北朝時代における北魏の仏像彫刻(雲崗・竜門石窟など)の影響を強く受けたものであり、日本の初期仏像様式である「止利式」を確立した。その特徴は、アーモンド型の目(杏仁形の目)や、口元に神秘的な微笑みを浮かべるアルカイックスマイル(仰月形の唇)、左右対称で平面的に表現された幾何学的な衣文(衣服の皺)などにある。これらは現実の肉体美を表現するよりも、超人間的で厳格な宗教的権威を象徴することに主眼が置かれていた。
彼の確実な代表作として知られるのが、推古31年(623年)に制作された法隆寺金堂釈迦三尊像(ブロンズ像)である。この像の光背裏面には「司馬鞍首止利仏師」の名が刻まれており、聖徳太子の病気平癒を祈って制作された背景が記されている。また、それ以前の推古17年(609年)に完成した日本最古の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)の本尊、通称「飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)」も鳥の作とされている。飛鳥大仏は後世の火災により大きく補修されているものの、顔の輪郭や指先の一部などに当初の止利式の面影を今に伝えている。
推古朝における仏教興隆政策との関わり
鞍作鳥の活躍は、単なる一技術者の枠に留まらず、推古天皇、聖徳太子(厩戸王)、そして蘇我馬子らが進めた国家的な仏教興隆政策と密接に結びついていた。当時の朝廷は、仏教を新たな支配イデオロギーとして導入し、先進的な国際文化を取り入れることで国家の威信を高めようとしていた。鳥の制作した荘厳な仏像は、その政策を具現化するための視覚的シンボルであった。
『日本書紀』によれば、飛鳥寺の大仏を無事に安置した功績を称えられ、推古天皇から冠位十二階の第5位にあたる「大仁(だいじん)」の冠位や、近江国の水田などを授けられた。技術者が国家的な高位を授けられたことは極めて異例であり、いかに彼が朝廷、とりわけ仏教導入を推進した蘇我氏から重用されていたかを示す、同時代の政治状況を反映した象徴的な出来事である。