飛鳥板蓋宮 (あすかいたぶきのみや)
【概説】
飛鳥時代中期に造営された皇極天皇の宮。現在の奈良県高市郡明日香村に位置し、645年に中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺したクーデター「乙巳の変」の舞台となったことで知られる歴史的な宮殿遺跡である。
構造と歴史的背景:初の本格的な「板葺」宮殿
飛鳥板蓋宮は、皇極天皇2年(643年)に小墾田宮(おはりだのみや)などから遷宮された宮殿である。それまでの天皇の宮殿は、屋根に萱(かや)や草を用いた簡易な「茅葺(かやぶき)」が主流であったが、この宮はわが国の宮殿として初めて本格的に木板を用いた「板葺(いたぶき)」で屋根が葺かれた。これが「板蓋宮」という名称の由来であり、当時の建築技術の進歩を示すとともに、王権の威容を内外に誇示する目的があったと考えられている。
当時は東アジア情勢が激動しており、中国大陸では唐が強大化し、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅も緊張状態にあった。このような国際的危機感の中、倭国(日本)でも天皇を中心とする中央集権的な国家体制の確立が急務となっていたが、宮廷内では大臣の蘇我入鹿が独裁的な権力を握り、皇室を凌ぐほどの勢力を見せていた。
乙巳の変の舞台:蘇我氏打倒の政変
皇極天皇4年(645年)6月12日、この飛鳥板蓋宮の大極殿(または大安殿)において、三韓(高句麗・百済・新羅)からの使者が貢物を捧げる「三韓の調(みつぎ)」の儀式が執り行われた。この儀式の最中、蘇我氏の専横に危機感を抱いていた中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らが周到な計画のもとにクーデターを決行した。
守衛が宮門を閉ざして退路を断つ中、中大兄皇子らはその場で蘇我入鹿を急襲し、皇極天皇の御前で斬殺した。この衝撃的な政変(乙巳の変)により、翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷が甘樫丘の邸宅で自害し、長年にわたり朝廷を主導してきた蘇我氏の本宗家は滅亡した。事件後、皇極天皇は同母弟の孝徳天皇に皇位を譲り(日本史上初の譲位)、都は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)へと移され、本格的な政治改革である「大化の改新」が始動することとなる。
考古学的意義:重層する飛鳥の宮殿遺構
長年、現在の明日香村大字岡に存在する遺跡は「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれてきたが、1959年(昭和34年)以降の発掘調査により、この地には複数の時期の宮殿遺構が重なり合って存在していることが判明した。
具体的には、最下層から舒明天皇の「飛鳥岡本宮」、中層から皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」、最上層からは斉明天皇の「後飛鳥岡本宮」や天武・持統天皇期の「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」の遺構が検出されている。この地は、乙巳の変ののち一時的に難波へ遷都した期間を除き、飛鳥時代を通じて倭国の政治的中心地であり続けた。現在は国指定史跡として整備され、復元された石敷きの広場や井戸跡などが、古代国家形成期の緊迫した歴史を今に伝えている。