皇極天皇 (こうぎょくてんのう)
【概説】
飛鳥時代中期に飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で政務を執った、日本史上2人目の女性天皇。
宮中で発生したクーデター「乙巳の変」に遭遇したことを契機に、日本史上初となる存命中での皇位譲渡(譲位)を行った。
後に重祚して第37代斉明天皇となり、緊迫する東アジア情勢の中で国政を主導した歴史的転換期の中心人物である。
皇位継承の緩衝材としての即位と蘇我氏の専横
皇極天皇は、舒明天皇の皇后(宝皇女)であったが、641年に舒明天皇が崩御した際、次期天皇の有力候補であった古人大兄皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)の間で皇位継承争いが発生することを避けるため、642年に中継ぎの女帝として即位した。このような「中継ぎとしての女帝」の擁立は、前例である推古天皇の先例を踏襲したものである。
彼女の治世下では、大臣である蘇我蝦夷とその子である蘇我入鹿が朝廷の実権を掌握していた。特に蘇我入鹿は、自らの血を引く古人大兄皇子を擁立すべく、最大のライバルであった山背大兄王の一族を斑鳩寺で自害に追い込むなど、専横を極めた。皇極天皇は飛鳥板蓋宮を造営して政治の拠点としたが、その実権は大きく蘇我氏へと傾いていた。
乙巳の変の衝撃と日本初の「譲位」
蘇我氏の独裁に対して、中大兄皇子(皇極天皇の息子)や中臣鎌足らは、水面下で打倒蘇我氏の計画を進めた。そして645年、飛鳥板蓋宮において、三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者を迎える「三国の調」の儀式の最中、中大兄皇子らが皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺した(乙巳の変)。
目の前で血に染まる惨劇を目撃した皇極天皇は、退位の意志を固めた。当時、天皇は終身任期が原則であり、存命中の退位は前例がなかったが、事態の収拾と政治改革の断行のために、同母弟の軽皇子(孝徳天皇)へ皇位を譲り、自らは皇祖母尊(すめみおやのみこと、太上天皇の祖型)となった。これが日本史上最初の譲位の事例であり、その後の大化の改新へとつながる画期となった。
斉明天皇としての重祚と東アジアの動乱
大化の改新を進めた孝徳天皇が難波宮で崩御すると、皇太子であった中大兄皇子は直ちには即位せず、655年に皇極天皇が再び皇位に就くこととなった。これを重祚(ちょうそ)と呼び、彼女は第37代斉明天皇として再び政務を執ることとなった(重祚も日本史上初である)。
斉明朝の実権は、皇太子となった中大兄皇子が「称制」という形で握っていたが、対外政策においては緊迫する東アジア情勢に対応せざるを得なかった。特に唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡(660年)すると、倭国(日本)は百済復興を支援するために朝鮮半島への出兵を決定。斉明天皇は老齢の身でありながら、自ら軍を率いて筑紫(九州)の朝倉宮へと西下したが、遠征途上の661年に同地で急死した。彼女の崩御後、中大兄皇子は喪に服しながらも指揮を執り、白村江の戦いへと突き進んでいくこととなる。