改新の詔

重要度
★★★

【参考リンク】
改新の詔(Wikipedia)

改新の詔 (かいしんのみことのり)

646年

【概説】
646(大化2)年、乙巳の変を経て成立した新政府が、難波長柄豊碕宮において発布した4か条からなる政治改革の宣言。公地公民制の原則や班田収授法の導入など、律令国家建設に向けた基本方針が示された。日本の古代国家形成期における最重要史料の一つである。

乙巳の変と新政権の発足

7世紀前半の東アジアは、強大な唐王朝の成立や朝鮮半島三国の対立など、激動の時代を迎えていた。この国際的な緊張のなか、日本では645年に中大兄皇子や中臣鎌足らがクーデターを起こし、国政を専断していた蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏本宗家を滅ぼした(乙巳の変)。

この政変によって即位した孝徳天皇は、日本初の元号である「大化」を建元し、都を飛鳥から難波長柄豊碕宮へ遷都して新政権を発足させた。新政権の最大の目標は、従来の豪族による土地や人民の私有体制を打ち破り、唐の律令制や均田制をモデルとした天皇中心の中央集権国家を樹立することにあった。その具体的な改革の設計図として大化2年正月に発布されたのが「改新の詔」である。

詔が掲げた四箇条の基本方針

『日本書紀』に記された改新の詔は、大きく四つの条文(四箇条)から構成されており、国家体制を根本から作り変える画期的な内容を含んでいた。

第一条では、従前の天皇の直轄地(屯倉)や直轄民(名代・子代)、および豪族の私有地(田荘)や私有民(部曲)を廃止し、すべての土地と人民を国家のものとする公地公民制の原則を打ち出した。これにより、豪族の経済的基盤を解体し、彼らを国家の官僚へと再編成することを目指した。なお、土地・人民を失った豪族に対しては、代償として大夫(官僚)に食封などを支給することも規定された。

第二条では、地方行政区画として初国(畿内)や国・郡・関・斥候(防人)・駅馬・伝馬などの交通・地方支配制度を整備することを定めた。第三条では、人民を個別に把握するための戸籍計帳を作成し、それに基づいて田地を割り当てる班田収授法の実施を規定した。そして第四条では、旧来の税制を改め、絹・布・糸などを納める新たな統一的な税制(のちの租・庸・調の基礎)を定めた。

『日本書紀』の潤色問題と郡評論争

「改新の詔」は古代史における最重要史料であるが、その記述内容は646年当時の文言そのままではないとするのが現在の歴史学界の通説である。編纂された奈良時代の段階で、完成された律令の用語を用いて過去の事実を修飾する「潤色」が行われていることが指摘されている。

その代表例が「郡評論争」である。詔の第二条には地方行政区画として「郡」という文字が使われているが、飛鳥京跡や藤原宮跡から出土した7世紀の木簡の研究により、大宝律令(701年)以前は「郡」ではなく「評(こおり)」と表記されていたことが確定している。また、戸籍に基づく全国的な班田収授や「五十戸を里とする」といった高度な制度も、大化の段階で直ちに実施されたわけではなく、7世紀後半の天智・天武・持統天皇の時代を経て段階的に整備されたものである。

律令国家への出発点としての意義

上述の通り、改新の詔の内容が発布直後にすべて現実のものとなったわけではない。しかし、公地公民体制への転換という改革の方向性そのものが宣言された歴史的事実は高く評価されている。この宣言は、あくまで律令国家へ向けた「第一歩」であった。

その後、663年の白村江の戦いでの大敗により、日本は深刻な国防上の危機に直面した。この外的要因が中央集権化の動きをさらに加速させ、庚午年籍の作成や飛鳥浄御原令の制定へとつながっていく。「改新の詔」で高らかに掲げられた理念は、約半世紀の試行錯誤と東アジアの国際情勢の荒波を乗り越え、8世紀初頭の大宝律令の制定によってようやく法的な実態を伴う完成をみることになるのである。

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