賃租

重要度
★★

【参考リンク】
地子(Wikipedia)

賃租 (ちんそ)

飛鳥時代〜平安時代

【概説】
律令制下の日本において、乗田(じょうでん)などの公有地を農民に貸し出し、収穫の5分の1を地代(地子)として徴収した土地制度。班田収授法の補完と国家財政の維持を目的に運用された。口分田が不足した農民の生活維持手段としての側面も持つ。

律令体制下の公地管理と賃租の構造

大化の改新以降、律令国家は公地公民制を原則とし、農民に対して生存と納税の基盤となる口分田(くぶんでん)を分け与える班田収授法を実施した。しかし、地域ごとの人口動態や死亡者の発生などにより、班給しきれずに余った公有地が生じた。これが乗田(じょうでん)である。

国家はこの乗田を放置して荒廃させるのを防ぐため、希望する農民に1年限りの期限で貸し出す制度を設けた。これが賃租(ちんそ)である。賃租の最大の特徴は、収穫の5分の1(20%)という非常に高い税率の地代(地子(じし))を課した点にある。口分田に課される通常の「租」が収穫の約3%であったことと比較すると、賃租による農民の負担は極めて重いものであった。

国家財政における役割と農民にとっての二面性

賃租は、国家や地方官衙(国衙)にとって極めて重要な財源確保の手段であった。賃租によって徴収された地子は、中央官庁の運営経費や、地方政府の蓄えである正税(しょうぜい)に組み込まれ、律令国家の経済的基盤を支えた。

一方で、農民の側から見ると、賃租は二面性を持っていた。人口増加に伴って口分田が不足しがちだった当時、特に畿内などの先進地域では、口分田だけでは家族を養えない農民が多数存在した。農民たちは、重い地子を支払ってでも生活を維持するために賃租を頼らざるを得なかった。このように、賃租は困窮する農民のセーフティネットとして機能した半面、高い地租負担によって農民の階層分化や貧困化を促進する要因にもなったのである。

墾田の進展と賃租の変容

8世紀に入ると、人口増加に対する土地不足が深刻化し、国家は開墾を奨励する政策へと舵を切る。723年の三世一身法や743年の墾田永年私財法が制定されると、貴族や大寺社による土地の私有化(墾田の開発)が急速に進んだ。

この開墾の進展と公地公民制の動揺にともない、国家が直接管理する乗田そのものが減少していった。これによって律令制的な賃租制度は徐々に衰退していったが、「土地を貸し出して地子を取る」という仕組み自体は私有地である荘園(初期荘園など)の内部へと引き継がれていく。すなわち、荘園領主が自領(墾田)を農民に貸し出して地子を徴収する形へと変容し、中世的な名主・小作関係の先駆をなすこととなった。

律令国家と社会構造 (歴史学叢書)

律令体制下における地方支配の変容と民衆の生活実態を考古学・文献史学の視点から解き明かす研究の精華。

日本古代の法と社会

古代日本における法規範と社会秩序の相互関係を鋭く分析し、統治構造の変遷を浮き彫りにする論考の集大成。

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