阿倍比羅夫 (あべのひらふ)
【概説】
飛鳥時代中期(7世紀半ば)の豪族、将軍。斉明天皇の治世において大水軍を率いて日本海を北上し、蝦夷(えみし)の服属や異民族である粛慎(みしはせ)の討伐を行った北方開拓の先駆者。後に百済復興を支援する白村江の戦いにも将軍として従軍し、朝廷の軍事面を支えた。
日本海遠征と大和朝廷の北方拡大
大化の改新(645年)以降、大和朝廷は越国(現在の北陸地方)を拠点として日本海沿岸の支配を北へと広げ、渟足柵(ぬたりのき)や磐舟柵(いわふねのき)を築いて支配の足がかりとしていた。こうした北方政策の推進役として抜擢されたのが越国守であった阿倍比羅夫である。
比羅夫は658年から660年にかけて、斉明天皇の命により180隻に及ぶ大船団を率いて日本海を北上する遠征を複数回にわたり実施した。現在の秋田県から青森県、さらには津軽海峡を越えて北海道(渡島地方)にまで達したとされる。比羅夫は現地で暮らす蝦夷たちを饗応して朝廷への帰順を促し、降伏した蝦夷の首長を郡領(地方官)に任命するなどして、実質的な支配領域を北方に拡大することに成功した。
異民族「粛慎」との衝突と歴史的意義
阿倍比羅夫の遠征における特筆すべき事績は、蝦夷の懇願を受けてさらに北方の異民族である粛慎(みしはせ)を討伐したことである。粛慎の正体については、樺太や北海道北東部に展開していたオホーツク文化の担い手(ツングース系民族など)と推測されている。
比羅夫は、現在の北海道奥尻島または羽幌町付近とみられる地域で粛慎の船団と激しい戦闘を繰り広げてこれを撃破し、多くの捕虜や戦利品を朝廷に献上した。この戦いは、古代日本が北方世界の異民族と直接交戦した数少ない記録であり、大和朝廷における「境界意識」や「小帝国」としての自己認識(周囲の異民族を従える中華帝国を模した国家像)を強化するきっかけとなった。
白村江の戦いへの参戦と評価
日本海側での軍功により朝廷内で確固たる地位を築いた比羅夫は、その後、朝鮮半島を巡る緊迫した国際情勢のなかで西方の戦場へと投入される。660年に唐・新羅の連合軍によって同盟国である百済が滅亡すると、朝廷は百済復興を支援すべく朝鮮半島への出兵を決定した。
比羅夫は662年、百済の遺臣らとともに救援軍の将軍(後軍あるいは中軍の将)として朝鮮半島へ渡り、663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍と激突した。この戦いで日本軍は壊滅的な大敗を喫したが、比羅夫は敗戦の混乱の中で軍を統率して撤退することに成功している。東の日本海から西の朝鮮半島に至るまで、当時の日本の外征を体現した軍事指揮官として、その存在感は極めて大きい。