後期(弥生時代)
【概説】
弥生時代の最終段階にあたり、紀元1世紀半ばから3世紀後半頃に比定される時期。鉄製農具の普及による農業生産力の飛躍的向上と社会的格差の拡大を背景として、倭国内における「クニ」の統合が急速に進み、邪ヤ馬台国に代表される連合政権が形成された激動の時代である。
鉄器の普及と農業生産力の飛躍
弥生時代後期において最も重要な社会構造の変化をもたらしたのは、鉄製農具の急速な普及である。それまでの木製農具や石器に代わり、鉄製の鍬(くわ)先や鋤(すき)先が広く用いられるようになったことで、深耕や開墾が容易になり、湿田から乾田への移行が進んで農業生産力が劇的に向上した。また、木工具にも鉄器が導入されたことで、木製品や建築部材の加工精度が格段に高まった。
このような生産力の増大は、余剰生産物の蓄積をもたらし、社会的な階層化(富の偏在)をさらに推し進める要因となった。この時期には、生産と流通の拠点を有する大規模な集落が各地に形成され、共同体を率いる指導者(首長)の権力が強化されていった。
倭国大乱と小国の統合
生産力の向上と社会の階層化は、水や土地、交易ルートの利権をめぐる地域間の衝突を引き起こすことにもつながった。2世紀後半、中国の歴史書『魏志倭人伝』などには「倭国大乱」と呼ばれる大規模な争乱が記録されている。この争乱は、日本列島各地の小国(クニ)が自立を求めつつも、より広域的な統合へと向かう政治的な再編期であったことを示している。
この大乱を収束させる契機となったのが、卑弥呼を女王として共立して成立した邪馬台国を中心とする連合政権である。邪馬台国は、中国の魏王朝に使節を派遣して「親魏倭王」の金印や銅鏡を獲得するなど、東アジアの国際情勢を主体的に利用することで国内の統治正当性を高め、小国間の緩やかな連合体制を維持した。
地域的墳丘墓の展開と前方後円墳への過渡期
弥生時代後期には、各地の首長の権力を顕示する政治的なモニュメントとして、墓の規模や形態が巨大化・多様化した。吉備地方の楯築墳丘墓や、山陰地方の四隅突出型墳丘墓など、各地域で独自の大型墳丘墓が築造された。これらの墓からは、豪華な副葬品や、死者を祀るための特殊な土器(特殊器台・特殊壺)が発見されており、首長を中心とする独自の祭祀儀礼が発達していたことがわかる。
これらの地域色豊かな墓制や祭祀が、弥生時代末期(3世紀中頃〜後半)に向けて融合・共通化していくプロセスこそが、古墳時代の幕開けを象徴する前方後円墳の誕生と、ヤマト王権の成立へと直接つながる歴史的な過渡期であった。