大友皇子(弘文天皇) (おおとものみこ/こうぶんてんのう)
【概説】
天智天皇の第一皇子にして、日本古代最大の内乱である壬申の乱の敗者。父の死後に近江朝廷を率いて叔父の大海人皇子(のちの天武天皇)と皇位を争ったが、美濃など東国の軍事力を掌握した大海人側に敗れ、山前(やまさき)の地で自害した。近代の明治時代に至って「弘文天皇」の諡号が贈られ、歴代天皇の列に加えられた。
天智朝における寵愛と日本初の太政大臣就任
大友皇子は、中大兄皇子(のちの天智天皇)の庶長子として生まれた。母は伊賀国の采女(うねめ)である宅子娘(やかこのいらつめ)であり、身分が低かったことが後の皇位継承問題に影を落とすこととなる。しかし、大友皇子は幼少期から学術に優れ、文武両道の才を発揮したとされる。日本最古の漢詩集『懐風藻』には、彼の優れた漢詩が収められており、教養豊かな人物であったことが窺える。
天智天皇は大友皇子を深く寵愛し、671年には、国政の最高官職として新設された太政大臣(だじょうだいじん)に彼を任命した。これは大友皇子を事実上の後継者(皇太子)として確立するための布石であったとされる。しかし、これにより天智天皇の同母弟であり、それまで有力な後継者と目されていた大海人皇子との対立が決定的なものとなった。
壬申の乱と近江朝廷の崩壊
671年末に天智天皇が崩御すると、大友皇子は近江大津宮(滋賀県大津市)において近江朝廷を実質的に主導した。しかし翌672年6月、吉野に隠棲していた大海人皇子が挙兵し、壬申の乱が勃発する。
大友皇子率いる近江朝廷軍は、各豪族への動員令が遅れたことや、朝廷内部の足並みの乱れから苦戦を強いられた。一方の大海人皇子は、美濃や尾張など東国の軍事力を迅速に掌握し、軍事的に優位に立った。近江朝廷軍は瀬田川の戦い(現在の滋賀県大津市)で決定的な敗北を喫し、追い詰められた大友皇子は山前(現在の京都府山崎周辺、または大津市山前など諸説あり)にて自害した。弱冠25歳での悲劇的な最期であった。
「弘文天皇」追諡と近代における評価
大友皇子が実際に即位していたかどうかについては、古来より議論が分かれていた。『日本書紀』などの公式記録においては、勝者である天武天皇(大海人皇子)の正統性を担保するため、大友皇子の即位は記録されず、天皇としては扱われなかった。
しかし、近世の水戸学(『大日本史』など)において大友皇子の正統性を支持する動きが現れ、明治時代に入ると南朝の正統性議論などと連動して皇位継承の歴史が見直された。その結果、明治3年(1870年)に明治政府によって正式に「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の諡号が贈られ、第39代天皇として公認されるに至った。これにより、天智天皇から天武天皇への政権移行の間に、大友皇子による「近江朝」が短期間ながら存在したことが歴史的に位置づけられることとなった。