飛鳥浄御原宮 (あすかきよみはらのみや)
【概説】
天武天皇と持統天皇の2代にわたって使用された飛鳥地方の宮。壬申の乱に勝利した天武天皇が近江大津宮から伝統的な政治の中心地である飛鳥へと都を戻して造営し、律令国家の骨格が形成された政治的中心地。
壬申の乱と飛鳥への回帰
672年、天智天皇の後継者を巡る古代最大の内乱である壬申の乱が勃発した。大友皇子(弘文天皇)を破って勝利した大海人皇子(のちの天武天皇)は、敗北した近江朝廷の地(近江大津宮)を捨て、自身の支持基盤であり伝統的な政治の故地でもある大和の飛鳥へと都を戻すことを決定した。これが飛鳥浄御原宮である。天武天皇は673年にこの宮で即位し、従来の豪族連合政権から脱却した、強力な天皇専制政治(皇親政治)を推し進めていくこととなった。
律令国家建設の表舞台
飛鳥浄御原宮は、日本が東アジアの一員として独自の国家体制(律令国家)を確立していく過渡期において、極めて重要な改革の舞台となった。この宮において、天武天皇は「天皇」の称号や「日本」の国号を本格的に使用し始めたとされる。さらに、本格的な法典である飛鳥浄御原令の編纂を命じ(681年)、天武天皇の没後に政権を継承した皇后の持統天皇が689年にこれを施行した。翌690年には、この令に基づいて我が国初となる全国的な戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作成され、班田収授の法が本格的に実施されるなど、中央集権化が急速に進んだ。
宮の構造と藤原京への橋渡し
近年の考古学的な発掘調査(奈良県明日香村の「伝飛鳥板蓋宮跡」)により、飛鳥浄御原宮の具体的な構造が徐々に明らかになっている。この宮では、天皇の生活空間である「内裏」と、官僚が政務や儀式を行う「朝堂院」の原型が明確に区分されつつあり、天皇を頂点とする新たな官僚制組織を機能させるための空間的工夫が見られる。飛鳥浄御原宮での政治的・空間的な試行錯誤は、日本初の本格的な本格的条坊制都城である藤原京(694年遷都)の設計へと受け継がれ、結実していくこととなった。