古賀精里 (こがせいり)
【概説】
江戸時代中・後期の朱子学者。柴野栗山、尾藤二洲とともに「寛政の三博士」と称された人物。佐賀藩の藩校整備に尽力したのち、幕府の召し抱えとなって昌平坂学問所の教官に就任し、寛政の改革期における朱子学の振興に大きな役割を果たした。
佐賀藩での頭角と藩校「弘道館」の整備
古賀精里は寛延3(1750)年、筑後国竹野郡(現在の福岡県久留米市)に生まれた。のちに佐賀藩(鍋島氏)に仕え、京都で儒学や医学を学んだ後、朱子学への傾倒を深めていった。当時の佐賀藩主・鍋島治茂は藩政改革の一環として学問の振興を重視しており、精里はその期待に応えて藩校である「弘道館」の創設と学則の制定に尽力した。精里が定めた教育方針は、のちに幕末の佐賀藩が近代化のリーダーとなる有能な人材(大隈重信や江藤新平ら)を多数輩出する地盤を築くこととなった。
「寛政異学の禁」と昌平坂学問所への招聘
老中・松平定信が主導した寛政の改革において、幕府の正学とされた朱子学以外の講義を禁止する「寛政異学の禁(1790年)」が発令された。これに伴い、幕府直轄の教育機関となった昌平坂学問所の体制強化が図られ、優秀な儒学者が全国から招聘された。当初は柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉の3人が教官に任じられたが、岡田が地方官(代官)に転任したため、寛政8(1796)年に古賀精里がその後任として召し抱えられた。これにより、精里は柴野・尾藤とともに「寛政の三博士」の一員として、幕府の学問統制と朱子学の復興を主導する立場となった。
実学重視の学風と後世への影響
古賀精里の学問は、単なる経書の解釈や観念的な議論に終始する朱子学ではなく、社会に実用的な成果をもたらす「経世済民」の実学(経世学)としての側面を強く持っていた。彼の合理的なアプローチは多くの門人に影響を与え、門下からは優れた儒学者や官僚が輩出された。また、その学識は一族にも受け継がれ、息子の古賀侗庵(とうあん)、孫の古賀茶渓(さけい)もまた優れた儒学者として昌平坂学問所の教官を務め、幕末期にわたって徳川幕府の文教政策を支え続けた。