藤原京

重要度
★★★

藤原京 (ふじわらきょう)

694年〜710年

【概説】
694年(持統天皇8年)、持統天皇が飛鳥浄御原宮から遷都した、日本で初めて本格的な条坊制(碁盤の目状の都市区画)を取り入れた都城。天武天皇の構想を引き継いで造営され、710年に平城京へ遷都されるまでの16年間、持統・文武・元明の三天皇の代にわたって律令国家初期の政治・文化の中心となった。

天武天皇の構想と造営の経緯

壬申の乱(672年)に勝利して即位した天武天皇は、強力な中央集権国家の建設を目指し、その象徴としての新たな都城の造営を構想した。676年には早くも新城の造営計画が立ち上げられたが、天皇の崩御などにより一時頓挫した。その後、天武の皇后でありその遺志を継いだ持統天皇によって造営が再開され、694年に飛鳥浄御原宮から新都への遷都が実行された。これが藤原京である。造営にあたっては、当時の先進国である唐の都城制を強く意識しつつも、飛鳥地方の伝統的な宮の系譜を受け継ぐ過渡的な性質も併せ持っていた。

日本初の本格的都城と「周礼」に基づく都市計画

藤原京の最大の特徴は、日本で初めて中国式の条坊制(碁盤の目状の道路網による区画)を採用した本格的な都城であったことである。大和三山(耳成山、畝傍山、天香久山)に囲まれた平野部に位置し、近年の発掘調査によって、その規模は平城京や平安京を凌ぐ南北約4.8km、東西約5.2km(またはそれ以上)に及ぶ広大なものであったことが判明している。

また、藤原京の宮殿(藤原宮)は都の中心付近に位置していた。これは後の平城京や平安京が都の北端に宮殿を置く「北闕型(ほっけつがた)」であったのに対し、中国の儒教経典『周礼(しゅらい)』が理想とする「都の中央に王宮を置く」という思想に忠実に従ったものと考えられている。さらに、屋根に瓦を葺き、礎石建ちの柱を用いた本格的な中国式宮殿建築が初めて立ち並んだのも藤原宮からであり、新都は視覚的にも国家の威信を内外に示すものであった。

律令国家の完成と大宝律令の制定

藤原京が都であった16年間は、日本の古代国家が法制的に完成を見た極めて重要な時期に該当する。701年(大宝元年)には、文武天皇のもとで刑法にあたる「律」と行政法にあたる「令」が揃った大宝律令が制定・施行された。これにより、天皇を頂点とする中央集権的な官僚機構が確立し、戸籍の作成や班田収授法の実施、祖・庸・調などの税制が全国的な規模で整備された。

また、この時期には「倭」に代わる新たな国号として「日本」が使用され始め、君主の号としても「天皇」が定着したとされる。702年には粟田真人らを大使とする遣唐使が約30年ぶりに派遣され、唐の側にも新たな国号と律令国家の成立が認知された。藤原京は、まさに「日本」という国家の骨格が形成され、国際社会へと第一歩を踏み出した舞台であった。

平城京遷都と藤原京が短命に終わった理由

国家の壮大な象徴として造営された藤原京であったが、わずか16年後の710年(和銅3年)、元明天皇の代に平城京へと遷都されることになる。この短命の理由については、複数の要因が指摘されている。

第一に、地形的な問題である。藤原京は盆地の中央に位置し、地形的な傾斜が乏しかったため水はけが悪く、人口の集中に伴って下水などの衛生面で深刻な環境悪化が発生したと考えられている。第二に、遣唐使がもたらした最新情報の存在である。帰国した粟田真人らが唐の長安城の壮大な「北闕型」の構造を報告したことで、藤原京の構造がすでに国際標準から乖離していることが認識された。さらに、増大する官僚や貴族の邸宅を収容しきれなくなった手狭さも一因に挙げられる。

こうして藤原京は廃棄されることとなったが、そこで確立された条坊制や瓦葺きの宮殿建築技術、そして律令国家の統治システムは、その後の平城京へと見事に引き継がれていったのである。

藤原京の形成 (日本史リブレット 6)

古代国家の威信をかけて建設された壮大な都の構造と、そこに込められた権力者の政治的意図を考古学の視点から解き明かす一冊。

詳説日本史図録

教科書『詳説日本史』の内容を、豊富な写真や図解、地図でビジュアル化した超定番の図録。文字だけでは理解しにくい歴史の流れや文化財のディテールが視覚的に頭に入る。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 古墳時代において、ヤマト政権と朝鮮半島を結ぶ交通の要所として有力な豪族が力を持ち、のちに磐井の乱の舞台ともなった九州北部の地域を何というか?
Q. 好太王碑(広開土王碑)の碑文の中で、倭軍が海を渡って百済や新羅を臣従させたと記録されている「西暦391年」の干支の年は何か?
Q. 王仁が日本にもたらしたとされる、異なる千個の漢字で構成された子供向けの漢字学習用テキストは何か?