大官大寺(百済大寺・大安寺)

重要度
★★

大官大寺 (だいかんだいじ / 百済大寺:くだらのおおてら / 大安寺:だいあんじ)

639年建立

【概説】
飛鳥時代に舒明天皇の発願によって建立された、日本最初の官立寺院。舒明朝の「百済大寺」に始まり、天武朝の「大官大寺」、平城京遷都後の「大安寺」へと移転・改称を繰り返しながら、律令国家における仏教界の最高位に君臨し続けた。

日本初の「官寺」としての創立と百済大寺

大官大寺の起源は、舒明天皇11年(639年)に建立が命じられた百済大寺(くだらのおおてら)に遡る。それ以前に存在した飛鳥寺(法興寺)や川原寺などは、蘇我氏をはじめとする有力氏族が私的に建立した「氏寺(うじでら)」の性格が強かった。これに対し百済大寺は、天皇の発願により国家の主導で造営された、日本初の「官寺(かんじ)」であった。

建立地は諸説あるが、吉備池遺跡(奈良県桜井市)から巨大な寺院跡と九重塔の基壇が発見され、これが百済大寺の跡である可能性が極めて高まっている。当時の東アジアにおける百済との緊張関係や外交的背景、そして天皇の権威を国内外に示す象徴として、巨大な国家寺院の建立が必要とされたのである。

天武・持統朝における国家仏教化と「大官大寺」への発展

天武天皇の時代になると、中央集権的な律令国家の形成に伴い、仏教を国家統治の道具として位置づける「国家仏教」の政策が推し進められた。天武天皇は百済大寺を高市郡(現在の橿原市付近)に移転し、国家の筆頭寺院という意味を込めて大官大寺(だいかんだいじ)と改称した。

さらに、持統天皇による藤原京への遷都に伴い、大官大寺は新都の東南に再び移転・再建された。藤原京における大官大寺は、薬師寺や本薬師寺などと並ぶ大伽藍を誇り、僧尼を統制するための官職である僧綱(そうごう)が置かれるなど、名実ともに諸寺を統括する国家仏教の中心地として機能した。

平城京への遷都と「大安寺」としての隆盛

和銅3年(710年)の平城京遷都に伴い、大官大寺は平城京左京へと移転され、ここで大安寺(だいあんじ)と改称された。この時、入唐留学生として唐の仏教を学んで帰国した僧・道慈(どうじ)が造営を主導した。道慈は唐の都・長安の「大極楽寺」などを模した先駆的な唐風の伽藍配置(大安寺式伽藍配置)を導入し、巨大な東西の七重塔を擁する大寺院を完成させた。

奈良時代の大安寺は、東大寺や興福寺などと並び南都七大寺の一つに数えられ、日本で最も国際的な「学問寺」となった。インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)や、唐の僧・道璿(どうせん)、林邑(ベトナム)の仏哲(ぶってつ)ら外来僧が居住し、最先端の仏教教理や文化を日本に伝える拠点となった。このように、百済大寺から大官大寺、そして大安寺へと至る変遷は、日本が氏族社会から東アジア標準の律令国家へと成長していく過程と密接に連動していたのである。

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Q. ヤマト政権の大王家(皇室)の祖神である天照大御神を祀り、古代から特別な地位を占めている三重県の神社はどこか?
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