薬師三尊像 (やくしさんぞんぞう)
【概説】
薬師寺金堂の本尊として安置されている、金銅製の仏像。中尊の薬師如来坐像と、左右の日光菩薩・月光菩薩立像から構成され、白鳳文化(飛鳥時代後期)の彫刻技術の最高峰を示す。
白鳳彫刻の最高峰たる造形美
白鳳文化(7世紀後半〜8世紀初頭)は、遣唐使の派遣や律令国家の建設が進む中、中国の初唐文化の影響を強く受けて開花した。薬師三尊像はその彫刻技術の到達点を示す傑作である。中尊の薬師如来坐像は、ふくよかな顔立ちと豊かな肉体表現を持ち、厳かな威厳を漂わせている。本来は全身に金メッキ(鍍金)が施されていたが、後世の火災などにより現在は漆黒の美しい光沢を放っている。
両脇に控える日光菩薩立像(向かって右)と月光菩薩(がっこうぼさつ)立像(向かって左)は、腰をわずかにひねって立つ「三屈法(さんくつほう)」というポーズをとっており、その優美で流麗な身体線と衣の表現(衣文)は極めて写実的である。これは、それまでの飛鳥彫刻(法隆寺金堂釈迦三尊像など)に見られた平面的・硬直的な表現(北魏様式)から脱却し、より人間味豊かな表現へと進化していることを示している。
国家仏教の展開と制作年代をめぐる論争
この像が安置されている薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、天武9年(680年)に藤原京に建立を開始した官寺(大寺)である。その後、和銅3年(710年)の平城遷都に伴い、現在の奈良市西ノ京に移転された。
薬師三尊像をめぐっては、藤原京の「本薬師寺」から移されたとする「移建説」と、平城京の現在地で新たに鋳造されたとする「新造説」が、大正時代から昭和にかけて歴史学者や美術史学者の間で激しく対立した(薬師寺論争)。しかし、近年の解体修理時の調査や科学的分析により、藤原京時代(白鳳期)に造られた像が平城京へと運ばれたという説(移建説)が極めて有力視されるようになり、現在では白鳳美術の最高傑作としての評価が確立している。
台座に刻まれた世界文化の融合
薬師如来坐像が腰掛ける宣字形(せんじがた)台座には、当時の日本が唐を通じて世界の文化を吸収していた様子が鮮やかに刻まれており、歴史的資料としても極めて重要である。台座の装飾には、ギリシアに起源をもつ葡萄(ぶどう)唐草文様、ペルシア(ササン朝)風の蓮華文様、中国の思想に基づく四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の浮き彫り、そして台座を支えるように配されたインド風の裸体異民族(蛮人)像が配置されている。
これらは、ユーラシア大陸を横断するシルクロードの文化が、東の終着点である日本(藤原京・平城京)へと到達し、仏教美術の中で融合したことを物語る象徴的な遺物である。