重要度
★★★

(りょう)

【概説】
古代日本において国家の基本法となった律令体制における「行政法・民法・訴訟法」にあたる法律。刑罰を定めた「律」と対をなし、中央や地方の行政組織、官吏の勤務規定、土地・人民の支配、租税制度などを詳細に規定している。7世紀後半から編纂が進められ、日本の中央集権的な官僚国家体制を確立するための最大の法的基盤となった。

律令体制における「令」の性格と役割

古代の東アジア世界において、中国の隋や唐をモデルとして形成された法体系が律令制である。このうち「律」が現代の刑法に相当し、犯罪に対する刑罰を規定したのに対し、「」は行政法や民法、訴訟法などに相当する。具体的には、中央や地方の役所の仕組み、官吏の登用や勤務評定、土地の分配や戸籍の管理、そして租税の徴収方法に至るまで、国家運営に必要なあらゆる制度が「令」によって定められていた。

氏姓制度に基づく豪族の連合政権から、天皇を頂点とする中央集権的な官僚国家へと転換を図っていた飛鳥時代の日本にとって、「令」の導入は単なる法律の制定ではなく、国家の骨格を一から作り上げる一大事業であった。すべての土地と人民を直接国家が支配する公地公民制を実現するためには、それを実務的に支える緻密な行政ルールたる「令」の存在が不可欠だったのである。

日本における「令」の変遷と確立

日本における令の編纂は、7世紀後半の飛鳥時代に本格化した。最初の法典とされるのが、天智天皇の時代に制定されたとされる近江令(668年頃)である。ただし、これについてはその実在を疑問視する説も根強い。続いて、天武天皇が編纂を命じ、持統天皇の時代の689年に施行されたのが飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)である。この段階では「律」は編纂されておらず、先行して「令」のみが施行されたと考えられており、国家の行政組織や戸籍制度の整備が急務であったことが窺える。

その後、文武天皇の時代の701年に刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が制定され、ここで初めて「律」と「令」が揃った本格的な法典が完成した。大宝令は全30編からなり、唐の制度を模倣しつつも、神祇官の設置など日本の国情に合わせた独自の改変が加えられている。さらに、718年に藤原不比等らによって編纂され、757年に施行された養老律令(養老令全30編)が現存しており、私たちが今日知る「令」の詳細な内容の大部分はこの養老令に基づいている。

「令」が定めた具体的な社会制度

「令」には、国家と人民の生活を規定する多種多様な項目が含まれていた。代表的なものとして、官吏の役職や位階を定めた「官位令(かんいりょう)」や「職員令(しきいんりょう)」があり、これにより太政官や神祇官の二官と八省を中心とする精緻な官僚機構が構築された。

また、民衆支配の根幹をなしたのが「戸令(こりょう)」「田令(でんりょう)」「賦役令(ぶやくりょう)」である。戸令と田令によって、全国の人民を戸籍や計帳に登録し、それに基づいて口分田を与えて死後に回収する班田収授法が法制化された。そして賦役令により、口分田からの収穫物に課される「租」、地方の特産物を納める「調」、労働力や布を納める「庸」といった租庸調の税制が確立された。このように、「令」は単なる支配層のルールにとどまらず、末端の農民の一生にまで直接的な影響を及ぼす社会の基本システムであった。

「令」の形骸化と格式・令外官の誕生

奈良時代から平安時代にかけて、社会経済の変化に伴い、「令」の規定と現実の社会状況との間に乖離が生じるようになった。人口の増加による口分田の不足や、農民の逃亡・浮浪が相次ぎ、班田収授が困難になると、令が前提としていた公地公民制は崩壊に向かった。

国家は令そのものを根本から改定するのではなく、令の規定を修正・補足する「(きゃく)」や、施行の細則を定めた「(しき)」を頻繁に発布することで現実に対応しようとした。平安時代前期にはこれらが集大成され、弘仁・貞観・延喜の三代格式が編纂された。また、令に規定のない新たな官職である令外官(りょうげのかん。蔵人頭や検非違使、関白など)が国政の要職を占めるようになり、律令制は実質的に変質・形骸化していった。しかし、法的な枠組みとしての「令」が公式に廃止されることはなく、名目上は明治維新に至るまで、天皇と朝廷の権威を支える建前としての機能を果たし続けたのである。

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Q. 白鳳彫刻の基準作とされる、もとは山田寺の本尊として造像されたが、のちに興福寺へ移されて頭部のみが残った仏像は何か?
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