重要度
★★★

7世紀後半〜

【概説】
古代日本の律令体制において、「刑法」に相当する法典。行政法や民法にあたる「令(りょう)」と対をなし、五刑などの刑罰や犯罪の要件が詳細に定められていた。中国の法体系と儒教思想を色濃く受け継ぎ、天皇を中心とする国家権力と身分秩序を維持するための根幹として機能した。

律令制の導入と「律」の成立

7世紀後半、飛鳥時代の日本は白村江の戦いでの敗戦を機に、急務として中央集権的な国家体制の構築を迫られていた。その手本となったのが、当時東アジアで強大な力を持っていた唐の法制度である。天智天皇期の近江令、天武天皇・持統天皇期の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という段階を経て、701(大宝元)年に刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が制定され、日本で初めて「律」と「令」が揃った体系的な法典が完成した。その後、718(養老2)年に編纂され、757(天平宝字元)年に施行された養老律令へと受け継がれていく。日本の「律」は、唐の刑法典である唐律(永徽律など)を強く意識し、その条文や体系の大部分を模倣・受容する形で成立した。

「律」と「令」の役割分担

「律」が現在の刑法にあたる罰則規定であるのに対し、「令」は国家の行政組織や官吏の服務規程、租税制度などを定めた行政法・民法にあたる。古代東アジアの法思想においては、まず「令」によって理想的な社会秩序を示し、それに違反した者を「律」によって処罰するという相互補完関係が重視された。日本でもこの概念が導入され、国家運営の両輪として機能した。しかし、日本の実情に合わせて独自の改変が多く施された「令」に比べると、「律」は唐の法律をほぼ直訳に近い形で導入しており、中国の法理念がより純粋な形で反映されているのが特徴である。

五刑と八虐に見る身分制と儒教思想

「律」に規定された刑罰は、軽い順から笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5段階からなり、これを五刑と呼ぶ。むち打ちなど肉体的な苦痛を与える刑から、強制労働、遠方への追放、そして死刑に至るまでが合理的に体系化されていた。
また、国家や天皇に対する反逆、あるいは尊属(親や祖父母)への危害といった重大な犯罪は八虐(はちぎゃく)と呼ばれ、特別に重い罪として扱われた。八虐には、天皇を殺害しようとする「謀反(むへん)」や、国家を転覆させようとする「謀叛(むほん)」などが含まれ、これらは大赦(恩赦)の対象外とされた。この背景には、君主への「忠」と親への「孝」を絶対視する強烈な儒教的倫理観が存在している。同時に、「律」は皇親や貴族に対しては、八虐以外の罪であれば刑を減免する特権(議請減贖)を法的に保障しており、厳格な身分階級制を擁護するための装置でもあった。

日本における「律」の変容と形骸化

飛鳥時代から奈良時代にかけては厳格に運用された「律」であったが、平安時代に入ると日本の社会構造の実情と合わなくなり、次第に形骸化していった。特に日本特有の現象として、仏教の不殺生戒の浸透や怨霊への恐怖から死刑を忌避する風潮が強まり、810年の薬子の変(弘仁の事件)以降、1156年の保元の乱に至るまで、約350年間にわたり国家による死刑の執行が事実上停止された。
これにより「律」の厳格な規定は実態を伴わなくなり、代わって社会の変化に対応するための追加法令である格(きゃく)や、施行細則である式(しき)が重視されるようになった。その後、中世において公家法や武家法といった新たな法慣習が成立するにつれ、古代国家の象徴であった「律」はその歴史的役割を静かに終えていったのである。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 聖徳太子の子でありながら、皇位継承をめぐって蘇我入鹿の警戒を招き、斑鳩宮を襲撃されて自害した皇族は誰か?
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Q. 律令制の戸籍の基本単位で、戸主を中心に複数の小さな家族集団(房戸)をまとめた行政上の家族集団を何というか?