五刑
【概説】
古代の律令制において、刑法にあたる「律」に規定された5種類の基本刑罰の総称。笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5段階からなり、罪の軽重に応じて体系的に科された。日本の法制度における刑罰体系の基礎を形作った極めて重要な制度である。
五刑の具体的な内容と構造
律令法において、五刑は罪の重さに応じて最も軽い「笞」から最も重い「死」まで段階的に整理されていた。それぞれの刑罰にはさらに細かな等級(等)が設けられており、合計で二十等の刑罰体系を構成していた。
笞(ち)は、最も軽い刑罰であり、細い竹の鞭(笞)で背中や臀部を叩くものである。10回から50回までの5段階(等)に分かれていた。これに次ぐ杖(じょう)は、笞よりも太い木製の棒(杖)で叩く刑罰であり、60回から100回までの5段階が設けられていた。徒(ず)は、現代の懲役刑に相当する強制労働刑であり、1年から3年まで半年刻みで5段階に分かれていた。これらは主に官有の工房などで労働に従事させた。流(る)は、罪人を辺境の地へ追放する流刑(配流)であり、都からの距離に応じて近流(こんる)・中流(ちゅうる)・遠流(おんる)の3段階に分かれていた。最も重い死(し)は死刑であり、絞(首を絞める)と斬(首を刎ねる)の2段階が存在し、斬の方がより重い罪とされた。
日本における唐律の受容と身分的特権
五刑は、中国の唐律を継受して大宝律令および養老律令に導入されたものである。しかし、日本への導入にあたっては、当時の社会情勢や伝統的な慣習を考慮した日本独自の変容が見られた。
特に顕著なのが、身分制社会を反映した刑罰の減免措置である。五位以上の貴族や皇族に対しては、重大な国家反逆罪である「八虐(はちぎゃく)」などを除き、刑罰を直接科す代わりに官位を剥奪したり(官当)、銅を納めさせることで刑を免除したりする(贖銅)特権が認められていた。これにより、律令国家における支配階層の地位と権威が法的に保護されていたのである。また、庶民であっても高齢者や年少者、障害を持つ者に対しては、刑罰を軽減・免除する規定が存在した。
平安時代における死刑の形骸化
五刑の体系は奈良時代から平安時代を通じて維持されたが、時代の推移とともに実態は変化した。特に「死」については、平安時代に入ると怨霊信仰の広まりや仏教の殺生戒の影響を受け、死刑の執行を回避する傾向が強まった。
弘仁元年(810年)の薬子の変における平城太上天皇側の首謀者・藤原仲成の処刑を最後に、保元の乱(1156年)で源為義らが処刑されるまでの約340年間、公式な死刑の執行は行われなかった。この間、死刑に相当する罪人は原則として「流(流刑)」に減刑され、五刑の実質的な最重刑は流刑として機能することとなった。このように、五刑の制度は中国の継受から始まりながらも、日本の精神文化や政治動向と深く結びついて運用された歴史的背景を持っている。