評 (こおり)
【概説】
大化の改新から大宝律令制定(701年)まで用いられていた、古代日本の地方行政区画の単位。のちの律令制における「郡(こおり)」の前身であり、中央集権国家の形成過程において重要な役割を果たした制度。
大化の改新と「評制」の展開
大化の改新(645年)以降、推し進められた公地公民制の導入にともない、大和政権は地方支配の再編に着手した。その過程で、従来の国造(くにのみやつこ)の支配領域を再編・分割して設置された行政単位が「評(こおり)」である。評の長官には、旧国造をはじめとする有力な地方豪族が「評督(ひょうとく)」などとして任命された。彼らは部民の廃止や臨時の戸籍作成、税の徴収などを担い、これによって地方豪族は、独立した首長から中央政府に仕える地方官僚へと組み込まれていくこととなった。
「郡評論争」と木簡の発見
古代の地方制度をめぐっては、長年にわたり「郡評論争」と呼ばれる激しい学術論争が存在した。『日本書紀』の大化の改新の詔(646年)には「郡」の文字が使われていたため、改新直後から郡が置かれたとする「郡置説」が通説であった。しかし、文献批判の観点から、大宝律令以前は「評」と書かれ、のちに『日本書紀』の編纂時に「郡」へ書き改められたとする「評置説」も強く主張されていた。この論争は、1967年の宮城県多賀城跡や、1999年の藤原宮跡などから「評」と記された大量の木簡が発見されたことで決着した。大宝律令(701年)以前の実在の行政単位は「評」であり、律令制定を機に「郡」へと改称・改編されたことが考古学的に実証されたのである。
地方支配の変遷と「評」の歴史的意義
「評」から「郡」への移行は、単なる名称の変更にとどまらず、地方支配がより安定的かつ中央集権的な段階へ到達したことを意味している。評の段階では、未だ在地首長の旧来の部族的結合や世襲的特権が強く残されていた。しかし、大宝律令の制定により行政区画としての「郡」が全国的に再整備され、その長である郡司には、より画一的な中央の統制が及ぶようになった。「評」は、氏姓制度から律令国家へと移行する過渡期において、地方社会を段階的に国家統治の枠組みへと統合するための極めて重要なステップであったといえる。