天武系 (てんぶけい)
【概説】
天武天皇の血統に連なる日本の皇統。672年の壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の急進的な政治路線に抵抗して勝利したことで確立し、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての皇位を独占した。770年の称徳天皇(孝謙天皇)の崩御によって断絶し、再び天智系の皇統へと移行するまで、約1世紀にわたる日本の律令国家建設期を牽引した。
壬申の乱と「天武系」皇統の確立
天武系の始祖である天武天皇(大海人皇子)は、兄である天智天皇の死後、その子である大友皇子(弘文天皇)と皇位を争う「壬申の乱」を引き起こした。この古代最大の内乱に勝利した天武天皇は、飛鳥浄御原宮にて即位し、従来の有力豪族を中心とした氏姓制度を廃し、天皇に権力を集中させる皇親政治を断行した。
天武天皇とその皇后であった持統天皇は、自らの直系血統(とりわけ早世した草壁皇子の血統)による皇位継承の恒久化を強く望んだ。これにより、天武の血を引く者のみが正統な皇位継承者とされる「天武系」のイデオロギーが形成され、律令編纂や遷都(藤原京・平城京)といった国家事業を強力に推し進める原動力となった。
皇位継承の維持と藤原氏の台頭
天武系は直系での皇位継承に執着したが、これは平坦な道ではなかった。草壁皇子の急逝をはじめとする後継者不在の危機に対し、持統天皇、元明天皇、元正天皇といった女性天皇(中継ぎの女帝)を相次いで即位させることで、直系男子(文武天皇、聖武天皇)への皇位継承を維持した。
この天武系皇統の維持と深く結びついたのが、新興貴族の藤原氏である。藤原不比等は、自らの娘である宮子を文武天皇の妃に、さらに光明子(光明皇后)を聖武天皇の皇后(人臣最初の皇后)とすることで、天武系皇統の中に藤原氏の血を組み込むことに成功した。聖武天皇の時代は「天武系」と「藤原氏」の緊密な結合期であり、鎮護国家の思想に基づく仏教政治が展開されることとなった。
天武系の終焉と天智系への回帰
天武系の直系皇位継承への執着は、やがて内政の混乱を招いた。聖武天皇の死後、皇位を継いだ孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は女性であったため、次代の後継者問題を抱えることとなった。この過程で寵愛を得た僧の道鏡が法王となって政権を握り、皇位を狙う「宇佐八幡宮神託事件」が発生するなど、皇位継承をめぐる混乱は極限に達した。
770年、称徳天皇が後嗣を定めないまま崩御すると、藤原百川や藤原永手らの策謀により、天武系の血統は排除され、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が擁立された。これにより、約100年間続いた天武系の政権は終焉を迎え、日本の皇統はふたたび天智系(後の桓武天皇による平安遷都へとつながる系譜)へと移行した。天武系皇統の断絶は、律令制に基づく「天皇絶対」の政治から、貴族政治(摂関政治)の形成へと向かう大きな転換点となった。