種子島(多禰島) (たねがしま(たねのしま)
7世紀後半〜8世紀
【概説】
九州南方に位置する島。飛鳥時代の7世紀後半から大和朝廷の支配が及び、8世紀初頭には律令国家の南限界を示す「多褹国」として行政区分に組み込まれた。
大和朝廷の南島進出と「多禰人」の朝貢
7世紀後半、大和朝廷は中央集権的な律令国家の形成を進める中で、九州南部(のちの薩摩・大隅地域)や、さらにその南方に広がる南島(薩南諸島など)の統合を進めていった。天武天皇11年(682年)などには、多禰(種子島)の住人である多禰人(たねびと)が朝廷を訪れて貢物を捧げたことが『日本書紀』に記されている。このように、大和朝廷は南方への威信を示すとともに、南島との交易や外交ルートを確保するために種子島を重視するようになった。
律令体制下の「多褹国」設置と歴史的意義
大宝2年(702年)の薩摩国の設置とほぼ同時期に、種子島や掖島(屋久島)などを管轄する地方行政区分として多褹国(たねのくに)が設置された。これにより、種子島は律令国家の「西海道」に属する最南端の国として正式に編入される。しかし、島嶼部における国司の維持や行政運営は財政的負担が重く、人口も少なかったことから、天平勝宝6年(754年)に多褹国は廃止され、対岸の大隅国に編入された。国としては短命に終わったものの、のちの遣唐使が用いた「南路」の寄港地として、また古代国家の境界を画する拠点として、歴史的に重要な役割を果たした。