三関(鈴鹿・不破・愛発)

重要度
★★

三関(鈴鹿・不破・愛発) (さんげん(すずか・ふわ・あらち)

7世紀後半〜789年

【概説】
古代の日本において、王権の心臓部である畿内を防衛するために、東海道・東山道・北陸道の要衝に設置された3つの関所。伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関の総称であり、軍事・交通の監視において極めて重要な役割を果たした。

壬申の乱と三関の起源

三関の設置と重要性の認識は、672年に起きた古代最大の内乱である壬申の乱に深く結びついている。天智天皇の後継者を巡るこの争いにおいて、吉野から脱出した大海人皇子(のちの天武天皇)は、いち早く美濃国を抑えて東国からの軍勢を動員し、近江大津宮の大友皇子側を破った。この歴史的経験から、東国からの軍事進出を阻止し、同時に反乱分子が東国へ逃亡するのを防ぐため、東国へ通じる主要街道の結節点に関所を設ける重要性が痛感された。天武朝から持統朝にかけて、東海道の鈴鹿関(三重県)、東山道の不破関(岐阜県)、北陸道の愛発関(福井県)の3つが国家の防衛ラインとして整備され、畿内と「東国(化外に近い地域を含む広い東部地域)」を分かつ歴史的な境界線となった。

国家の非常事態における「固関」制度

律令体制下における三関の最も重要な役割は、国家的な危機に際して行われる固関(こげん)の制度である。天皇の崩御や太上天皇・皇后の崩御、あるいは謀反などの重大な変事が首都で発生した際、朝廷はただちに固関使(こげんし)と呼ばれる臨時の使者を各関所に派遣した。関所は閉鎖されて通行が完全に遮断され、兵力を動員して防備が固められた。これは、中央での政変の混乱が東国に波及して大規模な内乱へと発展するのを未然に防ぎ、あるいは謀反人が東国へ逃れて再起を図るのを阻止するための、安全保障上の防衛システムであった。実際、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際などには、この固関が実施され、仲麻呂の東国逃亡を阻止する上で決定的な役割を果たした。

平安遷都と三関の変遷

桓武天皇の時代に入ると、国家財政の緊迫や国内情勢の安定、さらに東北地方の蝦夷征伐(三十八年戦争)への注力などの影響から、延暦8年(789年)に三関は廃止(停廃)された。これに伴い、関守の兵は停廃され、土地は周辺の民に与えられた。また、794年の平安遷都に伴って交通網が再編され、北陸道への関所は愛発関から、京都に近い近江国の逢坂関(おうさかのせき)へと実質的な役割が移行していった。しかし、実体としての関所が廃止された後も、天皇の崩御や政変の際に行われる「固関」の儀式自体は形式的に存続し、平安時代を通じて国家の象徴的な防衛境界としての政治的意味を持ち続けた。

律令国家と東アジア (日本の対外関係 2)

周辺諸国との外交交渉や防衛体制を通じて、古代日本の国家形成のプロセスと東アジアにおける立ち位置を浮き彫りにする歴史考察の書。

古代日本の交通路 3

古代における道と交通のあり方を考古学と文献史学の両面から解明し、人や物の移動が地域社会にもたらした影響を辿る研究の一冊。

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