関所
【概説】
交通の要衝や港などに寺社や貴族などの権門勢家が独自に設け、通行する商人や荷物から関銭(通行税)を徴収した施設。本来は古代国家が軍事・防衛を目的として設置したが、平安時代後期から中世にかけては経済的利益を得るための「私関」として変質し無数に乱立した。近世には幕府の治安維持機関として再編され、近代初頭に至るまで日本の交通統制において不可欠な役割を果たした。
古代の関所:防衛と国家の危機管理
日本の歴史において「関所」という存在が初めて明確に機能したのは、古代律令制の時代である。当時の関所は経済的な徴収施設ではなく、主に軍事的防衛や反乱の防止、治安維持を目的として設置された。代表的なものが、畿内への入り口を固めるための三関(鈴鹿関・不破関・愛発関)である。これらは天皇の崩御や大規模な叛乱など、国家の非常事態が生じた際に「固関(こげん)」と呼ばれる処置を行い、交通を遮断して情報や軍勢の移動を統制する極めて重要な政治的・軍事的機能を有していた。
平安・中世における変質:「私関」の乱立と関銭徴収
平安時代後期に入り、律令制が弛緩し荘園公領制が展開するようになると、関所の性質は大きく変質した。京都や奈良の有力な寺社や貴族(本所)が、自らの寺院の造営費や神事の財源を獲得する名目で、交通の要衝や河川の渡り、港などに独自に関所を設けるようになったのである。これが私関(新関)である。
彼らは通行する商人や運搬される荷物に対して関銭(陸路の通行税)や津料(水路の通行税)を課し、多大な経済的利益を上げた。この背景には、農業生産力の向上に伴う貨幣経済の浸透や、遠隔地商業の発展があった。しかし、朝廷の認可を得ない違法な関所も次々と建てられ、中世社会において関所は「権門勢家による有力な資金源」へと姿を変えたのである。
物流の阻害と関所撤廃への動き
鎌倉時代から室町時代にかけて商品流通がさらに活発化すると、私関の乱立は大きな社会問題となった。陸路や水路を問わず短い区間にいくつもの関所が設けられ、その都度関銭を徴収されることは、商品の流通コストを跳ね上げ、物価高騰の直接的な原因となった。室町幕府も自らの財源確保のために「幕府関」を設けたが、各地で馬借や車借などの運送業者による反発を招き、関所撤廃を求めて一揆を起こす事態も生じた。
こうした流通の阻害要因を排除し、自領の経済を活性化させるため、戦国時代に入ると各地の戦国大名は領内の関所を廃止し始めた。その決定打となったのが、織田信長や豊臣秀吉が強力に推進した関所撤廃や楽市・楽座などの経済統制策である。これにより、中世的な関銭徴収の仕組みは解体され、自由な商品流通が広域で保障されることとなった。
近世の関所:幕藩体制下の交通統制
中世の関所が経済的徴収を主目的としていたのに対し、江戸幕府が街道沿いに整備した関所は、再び政治的・警察的機能に特化したものとして復活した。東海道の箱根関所や新居関所に代表される近世の関所は、諸大名の謀反を警戒し、江戸に人質として置かれた大名の妻女の逃亡や江戸への武器流入を監視する「入鉄炮に出女」の取り締まりを主目的とした。
通行には関所手形が義務付けられ、幕藩体制の治安維持と権力誇示のための厳格な装置として機能したが、近代国家の建設を目指す明治政府によって交通の自由化が図られ、1869年(明治2年)に全国の関所は完全に廃止された。