晋(西晋) (しん / せいしん)
【概説】
魏・呉・蜀の三国時代を終息させ、3世紀後半に中国を一時的に統一した王朝。魏の権臣であった司馬炎(武帝)によって建国され、日本史においては邪馬台国の後継者とされる台与の朝貢(266年)を最後に、中国史書における倭国情報の記述が約150年間途絶える「空白の4世紀」の契機となった時代として位置づけられる。
三国時代の終焉と西晋による一時的統一
265年、魏の相国であった司馬炎(武帝)が元帝から禅譲を受け、国号を晋(後世の東晋と区別して西晋と呼ばれる)として建国した。西晋は280年に江南の「呉」を滅ぼすことで、後漢滅亡以来、約60年にわたって続いた三国時代の分裂に終止符を打ち、中国全土を統一することに成功した。
統一後の武帝は、一族を各地の諸王に封じて軍権を持たせるなどして宗室の強化を図った。また、占田・課田法などの土地制度や、戸調式と呼ばれる税制を整備して社会の安定を試みた。しかし、武帝の死後は後継者争いから一族の内乱である八王の乱(291年〜306年)が発生。この混乱に乗じて華北へ進出した周辺の北族(五胡)の侵入を招くこととなり、316年に匈奴の建てた前趙(漢)によって滅ぼされた。西晋による統一期間はわずか30余年という、極めて短命な王朝であった。
「倭女王・台与」の朝貢と「空白の4世紀」
日本史において西晋の存在が極めて重要視されるのは、この王朝の時代を最後に、中国の歴史書から倭国(日本)に関する具体的な記述が長く途絶えるためである。
『三国志』魏書東夷伝(魏志倭人伝)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の没後、宗女である台与(とよ)が王に立ち、国内の混乱を収めたことが記されている。この台与は、西晋が成立した直後の泰始2年(266年)に、都の洛陽へ使者を送り朝貢を行ったことが『晋書』武帝紀などに記録されている。しかし、この266年の朝貢記録を最後に、中国の史書から倭国に関する記述は完全に途絶えてしまう。次に倭国が登場するのは、413年に東晋へ朝貢した「倭の五王」の時代(『晋書』安帝紀)であり、この間、150年近くにわたり日本国内の動向を直接示す文字資料が存在しないため、この期間は日本史において「空白の4世紀」と呼ばれる。
西晋の崩壊が日本(ヤマト王権)に与えた影響
西晋が統一を維持していた3世紀後半から、八王の乱や永嘉の乱を経て滅亡に至る4世紀初頭は、日本国内においては弥生時代から古墳時代への過渡期、すなわち前方後円墳(箸墓古墳など)の築造が始まり、ヤマト王権による政治的統合が急速に進んでいた時期にあたる。
西晋の急速な衰退と滅亡は、東アジア全体の国際情勢を激変させた。朝鮮半島では中国王朝の出先機関であった楽浪郡や帯方郡が北方の高句麗によって滅ぼされ(313年頃)、百済や新羅といった古代国家が台頭することとなった。こうした東アジア規模の大動乱期の中で、倭国(ヤマト王権)は中国王朝という政治的・権威的な後ろ盾を一時的に失いながらも、朝鮮半島の南端部(任那・加羅地域)との間で直接的な交渉を行い、鉄資源の確保や大陸の先進技術の導入を独自に進め、国家形成を促していったと考えられている。