毛野
【概説】
現在の群馬県と栃木県にまたがる、古墳時代の東国における一大政治・文化的地域。東日本最大級の古墳群が築造されるなど、ヤマト政権と対峙・協調しながら強い独立性を維持した強力な豪族が存在した地として知られる。
東日本最大の古墳地帯としての毛野
毛野地域(特に後に上毛野となる群馬県側)には、5世紀前半に築造された東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳(全長約210メートル)をはじめ、浅間山古墳や保渡田古墳群、綿貫観音山古墳など、畿内の大王墓に匹敵する巨大古墳が数多く分布している。これは、渡良瀬川や利根川の流域に広がる豊かな平野部を背景に、強力な農業生産力と軍事力を誇る独自の政治勢力が存在したことを示している。また、これらの古墳からは、優れた造形をもつ埴輪や、朝鮮半島製とみられる武具や馬具などの副葬品が多数出土しており、畿内政権を介さない独自の交易ルートを有していた可能性も指摘されている。
ヤマト政権との関係と朝鮮半島への進出
毛野の豪族(毛野氏)は、ヤマト政権の東国支配における最大の拠点として重きをなす一方、独自の外交・軍事力を維持していた。6世紀前半の継体天皇の時代には、毛野氏の一族である近江毛野(おうみのけぬ)が、任那(加羅)復興のために大軍を率いて朝鮮半島へと派遣されたことが『日本書紀』に記されている。この派遣は、九州の筑紫君磐井が起こした「磐井の乱」とも密接に関連しており、当時の毛野氏がヤマト政権の中央外交や軍事政策に深く関わるほどの影響力を持っていたことを証明している。しかし、近江毛野の外交交渉は失敗に終わり、これを契機に毛野勢力もヤマト政権の統制下に次第に組み込まれていくこととなった。
上毛野・下毛野への分割と律令制への移行
7世紀の律令体制の形成期にかけて、広大な「毛野」の地は利根川を境界として、西側の上毛野(かみつけの、後の上野国・現群馬県)と東側の下毛野(しもつけの、後の下野国・現栃木県)の二国に分割された。これに伴い、在地の豪族も上毛野氏と下毛野氏に分かれ、それぞれ中央貴族(朝臣)の姓を授けられて律令国家の官僚へと再編されていった。毛野から分かれた両国は、東北地方の蝦夷(えみし)に対する軍事・教化の最前線基地として、また軍馬の供給地として、朝廷から極めて重要な地政学的拠点とみなされ続けた。