北朝(南北朝時代の中国)
【概説】
南北朝時代の中国において、華北を支配した北魏と、そこから分裂・交替した北方の諸王朝の総称。439年の北魏による華北統一から、581年の隋建国までの期間を指し、江南に逃れた漢民族王朝(南朝)と激しく対立した。日本の古墳時代にあたるこの時期、倭国は南朝に朝貢する一方、朝鮮半島の高句麗が北朝と結んだため、北朝の動向は古代日本の対外政策に多大な影響を与えた。
遊牧民による華北支配と北魏の統一
4世紀初頭の西晋の滅亡以降、中国の華北地方では北方遊牧民(五胡)が次々と政権を建てる五胡十六国時代と呼ばれる動乱期が続いていた。その中から鮮卑族の拓跋氏が建国した北魏が台頭し、439年に第3代皇帝の太武帝が華北を統一した。これにより、江南に逃れた漢民族の王朝(宋・斉・梁・陳)と対峙する南北朝時代が幕を開けた。
北魏は当初、遊牧民独自の部族制を維持していたが、第6代・孝文帝の時代になると、都を北方の平城から中原の洛陽に移し、言語や風俗、服制を漢族風に改める強力な漢化政策を推進した。この政策によって遊牧民と漢民族の融合(胡漢融合)が進み、後の隋・唐帝国へとつながる新たな国家体制の基盤が築かれることとなった。
北朝の分裂と王朝の変遷
6世紀に入ると、急激な漢化政策に対する北方駐屯軍の反発から六鎮の乱などの内乱が勃発し、北魏は深刻な政治的混乱に陥った。その結果、534年に北魏は東西に分裂し、東側の東魏と西側の西魏が成立した。
その後、東魏の実権を握っていた高氏が550年に北斉を、西魏の実権を握っていた宇文氏が556年に北周を建国してそれぞれ簒奪する形で政権が交代した。最終的に577年に北周が北斉を滅ぼして再び華北を統一するが、その外戚であった楊堅(文帝)が帝位を奪い、581年に隋を建国した。この北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5つの王朝を総称して「北朝」と呼ぶ。589年に隋が南朝の陳を滅ぼしたことで、長きにわたる南北朝時代は終結した。
律令国家の源流となる制度と文化
北朝の歴史的意義は、後に日本を含めた東アジア全体に波及する律令国家体制の源流を生み出した点にある。北魏の時代に創始された、国家が農民に土地を支給して租税を徴収する均田制や、村落行政制度である三長制は、北朝の歴代王朝に受け継がれ洗練されていった。また、西魏で始まったとされる兵農一致の軍事制度である府兵制は、強力な軍事力を生み出し、華北の政権が最終的に南朝を圧倒する原動力となった。
文化面では、北朝の歴代皇帝は仏教を篤く保護し、国家統治のイデオロギーとして利用した。平城郊外の雲岡石窟や洛陽郊外の龍門石窟に見られる巨大な仏教美術は、皇帝の権威と結びついた国家仏教の威容を示している。こうした「鎮護国家」的な仏教観や造仏の技術は、後に飛鳥・奈良時代の日本における仏教受容にも多大な影響を与えた。
倭国および東アジア国際関係への影響
日本史の観点から見ると、北朝が存続した期間は日本の古墳時代の中期から後期に該当する。この時期、朝鮮半島北部では高句麗が強盛を誇っていた。439年に北魏が華北を統一すると、高句麗はただちに北魏に朝貢して背後の安全を確保し、朝鮮半島での南下政策を強力に推し進めた。
これに対し、朝鮮半島南部(百済・新羅・加耶)での権益を維持し、高句麗の脅威に対抗しようとしたのが倭の五王(讃・珍・済・興・武)である。倭国は、あえて北朝ではなく江南の南朝(宋など)に遣使を行って朝貢し、「安東大将軍」などの将軍号を求めることで、東アジアの国際社会における自国の軍事的・政治的立場を有利にしようと図った。
このように、倭国が南朝と結んだ背景には、強大な北朝と連携した高句麗の存在があり、北朝の動向は当時の日本の外交戦略を決定づける最重要の要因であった。やがて北朝の流れを汲む隋が中国を統一すると、日本は推古天皇の時代に遣隋使を派遣し、北朝由来の均田制などの統治システムを積極的に導入していく。これが後の大化の改新から律令国家形成へと直結することになるのである。