珍 (ちん)
【概説】
5世紀前半に中国の南朝へ朝貢した「倭の五王」の第2の王。中国の歴史書『宋書』倭国伝にその名が登場し、宋の文帝より「安東将軍倭国王」に叙せられた。記紀における反正天皇や仁徳天皇に比定する説が有力視されている。
中国史料にみる「珍」の積極的な外交攻勢
中国の歴史書『宋書』倭国伝によると、珍は438年(元嘉15年)に宋(南朝)の文帝に対して朝貢を行った。前王である「賛」の没後、その弟(あるいは子)として王位を継承したと記されている。珍はこの使節派遣において、自らを「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、宋に対してこの官爵を公式に認める(除正する)よう求めた。
しかし、宋側が珍に与えたのは「安東将軍倭国王」の称号のみであり、朝鮮半島諸地域への軍事的支配権を意味する「都督」などの称号は認められなかった。一方で、珍の推挙によって部下の倭隋ら13人に対して、平西・征虜・冠軍・輔国将軍などの将軍号が与えられている。これは、倭国内部における王権の強化と、臣下に対する論功行賞の権威付けを目的としたものと考えられ、倭王の国内的支配力が向上していたことを示している。
天皇への比定をめぐる「反正説」と「仁徳説」
「珍」が日本の歴代天皇の誰に該当するかについては、現在も議論が続いている。最も有力視されているのが、第18代反正(はんぜい)天皇とする説である。反正天皇の和風諡号は「多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)」であり、名の中に含まれる「瑞(みず=珍しい)」の意味が「珍」の一文字に要約された、あるいは「瑞歯(みづは)」の「は」の音が「珍(ちん)」に近いとされることが根拠となっている。
これに対し、第16代仁徳(にんとく)天皇(大鷦鷯尊:おおさざきのみこと)に比定する説もある。これは「珍」の音通や解釈によるものだが、前後の王である「賛」を履中(りちゅう)天皇、のちの「済」を允恭(いんぎょう)天皇とする系統的な比定から逆算すると、世代的に反正天皇に比定するのが最も整合性が高いとされている。
東アジア国際情勢と「珍」の遣使の背景
珍が活躍した5世紀前半の東アジアは、北方の大国である高句麗の南下政策(長寿王による平壌遷都など)によって、朝鮮半島の緊張が極度に高まっていた時代であった。こうした情勢下で、倭国は百済や新羅などの諸地域に対する自国の影響力を確保し、高句麗に対抗する必要があった。
宋に対して求めた広範な都督称号は、こうした国際的な軍子的優位性を中国王朝の権威を借りて誇示しようとした外交戦略の現れである。宋側から一部の称号しか認められなかったものの、この積極外交の姿勢は次代の倭王「済」「興」「武」へと継承され、倭国の古代国家形成における重要な布石となった。