平群氏

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
平群氏(Wikipedia)

平群氏 (へぐりうじ)

5世紀〜6世紀初頭

【概説】
古代のヤマト政権において、「臣(おみ)」の姓(カバネ)を称した有力豪族。伝説的な英雄である武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とし、5世紀後半に葛城氏が没落したのちに大王(天皇)家を支える中心勢力として台頭したが、5世紀末に大伴氏や物部氏によって本宗家が滅ぼされた。

葛城氏の没落と平群氏の台頭

平群氏は、大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡平群町付近)を本拠地とした地祇系豪族である。同族には葛城氏、巨勢氏、蘇我氏などがあり、いずれも天皇家を補佐する最高官職である「大臣(おおおみ)」を輩出する「臣」の姓を持っていた。

5世紀前半のヤマト政権においては、大王家と緊密な姻戚関係を結んだ葛城氏が絶大な権力を誇っていた。しかし、大王権力の強化を目指す雄略天皇の時代に葛城氏が没落すると、これに代わって平群氏が中央政界の中心へと躍り出ることとなった。文献史料において、平群氏の祖とされる平群木菟(へぐりのずく)は、仁徳天皇と同日に生まれ、互いの名を交換したという伝説が『日本書紀』に記されており、古くから大王家と極めて近い関係にあったことが示唆されている。

平群真鳥・鮪の専権と「平群氏の滅亡」

5世紀末、雄略天皇が崩御した後の混乱期において、平群氏の家長である平群真鳥(へぐりのまとり)は、国政を実質的に専断する大臣として君臨した。真鳥は次第に大王家をもしのぐ権勢を誇るようになり、朝鮮半島(百済など)との外交権をも掌握したとされる。

『日本書紀』によれば、真鳥とその子である平群鮪(しび)は傲慢であり、のちの武烈天皇となる小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)と対立した。特に鮪は、影媛(かげひめ)という女性をめぐる相聞歌の応酬で大王家を挑発したとされる。498年、この専横に危機感を募らせた大王家と、新興の軍事豪族である大伴金村(おおとものかなむら)や物部麁鹿火(もののべのあらかひ)らは、兵を挙げて平群真鳥・鮪父子を討伐した。これにより、平群氏の本宗家は滅亡したとされる。

歴史的意義:臣から連への政権主導権の推移

平群氏本宗家の滅亡は、単なる一豪族の没落にとどまらず、ヤマト政権内部の権力構造の大きな変革を意味している。それまで政権の中心を担っていたのは、大王家と同格に近い出自を持ち、地縁的結びつきの強かった葛城氏や平群氏といった「臣」系の豪族であった。しかし、平群氏の失脚により、軍事や刑獄などの特定職能をもって大王家に奉仕する伴造(とものみやつこ)出身の「連(むらじ)」系豪族、すなわち大伴氏や物部氏が中央政界の主導権を握る時代(継体天皇の即位など)へと移行することとなった。

なお、平群氏は完全に絶滅したわけではなく、傍系はその後も存続した。6世紀前半には宣化天皇の「平群広瀬宮」がその本拠地に造営されたほか、飛鳥時代から奈良時代にかけても官人(平群神手など)として歴史に名を残している。しかし、かつてのような政権を左右するほどの政治力を取り戻すことは二度となかった。

最終更新:
2026年6月18日 @ 16:32

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