部民制

重要度
★★★

【参考リンク】
部民制(Wikipedia)

部民制 (べみんせい)

5世紀頃〜7世紀中葉

【概説】
ヤマト政権が、民衆を特定の集団(部)に編成し、朝廷や豪族に奉仕させた支配制度。5世紀頃から発達して大王(天皇)や豪族の経済的・軍事的基盤として機能したが、7世紀中葉の大化の改新による公地公民制の導入に伴い解体へと向かった。

ヤマト政権の国家形成と部民制の成立

部民制は、ヤマト政権が日本列島における支配領域を拡大し、王権の基盤を固めていく過程で生み出された身分・職能的な人民編制の仕組みである。5世紀頃、朝鮮半島南部での軍事的緊張や大陸の先進文化の流入を背景に、ヤマト政権は渡来人などが持つ高度な技術や労働力を体系的に掌握する必要に迫られた。そこで在地首長を国造(くにのみやつこ)などに任命して地方支配を進めると同時に、その傘下にある民衆を「部(べ)」という単位に編成し、特定の生産物や労働力を貢納させるシステムを整えていった。

部民の多様な分類と役割

部民制における「部」は、誰に属し、どのような役割を担うかによって大きく分類される。第一に、ヤマト政権(大王家)に直属する部民である。大王の直轄領である屯倉(みやけ)を耕作する田部(たべ)や、朝廷に特殊な技術や特産物を奉仕する品部(しなべ)(錦織部、土師部、服部など)、さらには大王や王子の名を後世に伝えるために設定された名代・子代(なしろ・こしろ)が存在した。

第二に、中央や地方の有力豪族が私有した部民である。これらは部曲(かきべ)と呼ばれ、豪族たちの私有地である田荘(たどころ)の耕作や、日常の雑役に従事する私的な労働力として使役された。このように、部民制は一元的な国家支配ではなく、朝廷直轄の民と豪族私有の民が混在する多元的な構造を持っていた。

氏姓制度との不可分な関係

部民制の歴史的意義を理解する上で欠かせないのが、同時代の政治的階層秩序である氏姓制度(しせいせいど)との密接な連動である。ヤマト政権は、特定の品部を統率する責任者として、特定の氏(うじ)を伴造(とものみやつこ)に任命した。

例えば、軍事労働を負担する大伴部(おおともべ)や物部部(もののべべ)を統率したのが大伴氏や物部氏であり、祭祀を担当する忌部(いんべ)を統括したのが忌部氏であった。すなわち部民は、中央豪族が朝廷において特定の職掌を世襲し、政治的地位(カバネ)を維持するための経済的・人的な裏付けとして機能していたのである。

部民制の限界と公地公民制への転換

6世紀後半から7世紀にかけて、隋・唐といった強大な統一帝国が中国大陸に出現し、東アジアの国際情勢が緊迫化すると、ヤマト政権には分権的な体制を克服し、強力な中央集権国家へと脱皮することが求められた。しかし、豪族が部曲や田荘を私有する部民制の構造は、国家権力による人民と土地の一元的な掌握を阻む最大の障壁となっていた。

そのため、645年の乙巳の変を経て発布された改新の詔(646年)において、子代の民や各地の屯倉、そして豪族の部曲や田荘の廃止が宣言され、王土王民の理念に基づく公地公民制への移行が目指された。一部の特殊な技術を持つ品部などは存続したものの、多くの部民は国家が直接戸籍に登録して支配する「公民」へと再編され、部民制は律令国家の形成とともにその歴史的役割を終えることとなった。

日本国家の形成 (岩波新書 黄版 13)

列島各地の考古学的知見を精緻に読み解き、国家という枠組みが古代日本でいかに形成されたのかを解明する歴史学の探究書。

日本の歴史 (2) 古代国家の成立 (中公文庫)

大和政権の確立から律令国家への発展まで、古代社会のダイナミックな変容を体系的な視点から鮮やかに描き出した通史の決定版。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 白村江の敗戦後、国防を強化するために九州北部の沿岸などに配置された、主に東国出身の農民からなる防衛部隊を何というか?
Q. 韓鍛冶部(からかぬちべ)などの渡来人が高度な技術を日本に伝えた、鉄を熱して叩き、武器や農具などを製造する技術を何というか?
Q. 大化の改新において、これまでの国造の支配領域などを再編して作られた、地方行政の大きな区画を何というか?