家族墓

重要度
★★

【参考リンク】
墓(Wikipedia)

家族墓 (かぞくぼ)

6世紀〜7世紀頃

【概説】
古墳時代後期において、一族の複数の死者を同じ場所に葬るために用いられた古墳の埋葬形態。大陸から導入された横穴式石室の普及に伴い、追葬(追加埋葬)が可能になったことで成立した社会的な墓制である。

竪穴式から横穴式へ:技術的転換と「追葬」の実現

古墳時代前期から中期にかけての埋葬施設は、竪穴式石室や粘土槨が主流であった。これらは天井部から木棺を納めて上部を完全に密封する構造であったため、基本的には一代限りの首長個人を埋葬する「個人墓」としての性格が強かった。

しかし、古墳時代中期前葉に朝鮮半島から横穴式石室の技術が伝来し、後期(6世紀)になると全国的に普及した。横穴式石室は、遺体を安置する「玄室(げんしつ)」と、外部へと通じる通路である「羨道(せんどう)」から構成されている。入り口を塞ぐ閉塞石(あるいは木扉など)を着脱することで、同一の石室内に新たな死者を何度も追加して埋葬する「追葬(ついそう)」が可能となった。これが「家族墓」が成立する技術的な前提となったのである。

群集墳の形成と被葬者層の拡大

家族墓の普及は、古墳の形態や分布にも劇的な変化をもたらした。それまでの巨大な前方後円墳に代わり、直径十数メートル程度の小規模な円墳や方墳が、特定の丘陵地などに数十から数百基も密集して築かれるようになった。これを群集墳(ぐんしゅうふん)と呼ぶ。代表例としては、奈良県の新沢千塚古墳群や和歌山県の岩橋千塚古墳群などが挙げられる。

群集墳に築かれた横穴式石室の多くは家族墓として機能した。これは、古墳に葬られる権利が一部の最高権力者(首長)だけでなく、地域社会を支える有力な農民層(中堅豪族やその血縁集団)にまで拡大したことを意味している。血縁関係を基礎とした「家」のような小規模な共同体が、それぞれの墓(家族墓)を持つことで、一族の結束や正当性を視覚的に示したのである。

家族墓が示す古代社会の構造変容

家族墓の定着は、日本の古代社会における統治システムや社会構造の大きな変革を反映している。前期・中期の首長墓が「個人」の超越的な政治権力を示すモニュメントであったのに対し、後期の家族墓・群集墳は「血縁共同体(ウジやコウジ)」の永続性を重視する世襲的な社会構造への移行を示している。

同時代には、ヤマト政権による部民制(べみんせい)や国造制(くにのみやつこせい)の整備が進んでおり、地方支配の末端において、これら家族墓を営むような地域の有力家族が重要な役割を果たしていたと考えられている。のちの律令制下における「戸(こ)」や「家(いえ)」といった、緊密な家族単位の社会秩序がこの時期に萌芽・形成されつつあったことを、家族墓の流行は考古学的な側面から裏付けている。

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