対馬(江戸時代より前) (つしま)
【概説】
九州と朝鮮半島の間に位置し、古くから大陸の先進文化の中継地や交易の要衝となった島。農耕に不向きな山がちな地形のため古来より海上交易に生計を依存し、日本の対外関係史において「国防の最前線」と「外交・貿易の窓口」という二面的な役割を担い続けた。
古代における「境界」と国防の最前線
対馬が日本の歴史の表舞台に登場するのは古く、3世紀に編纂された『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)に「対海国」として記録されている。そこには「良田がなく、海産物を捕って生活し、船に乗って南北に市糴(交易)している」と記されており、古代から朝鮮半島と九州本土とを結ぶ交易によって成り立っていた事実が窺える。古墳時代においては、ヤマト政権が朝鮮半島の伽耶(任那)などから鉄資源や先進的な須恵器・武具などを輸入する際の極めて重要な中継地であった。
7世紀後半、東アジアの国際情勢が激変すると、対馬は「国防の最前線」としての性格を強める。663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に敗れたヤマト政権は、日本列島への本格的な侵攻に備えて防衛体制の強化を急いだ。664年には対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽(とぶひ)が置かれ、667年には対馬に古代山城である金田城(かなだじょう)が築かれた。対馬はまさに、国家の存亡をかけた軍事境界線として機能したのである。
中世の襲来被害と前期倭寇の発生
平安時代中期以降も、対馬は地理的な条件から外部勢力の脅威に常に晒され続けた。1019年には中国東北部の女真族を主体とする海賊集団が襲来した刀伊の入寇によって、島は壊滅的な被害を受けた。さらに鎌倉時代の1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度にわたる元寇(蒙古襲来)では、モンゴル帝国と高麗の連合軍による最初の攻撃目標となった。特に文永の役では、守護代の宗助国ら島民が激しく抗戦したものの玉砕し、島は多大な惨禍に見舞われた。
しかし、こうした被害を受ける一方で、対馬の人々もただ受動的に略奪されていたわけではない。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、土地の貧しい対馬や壱岐、松浦などの海民たちは、生活の糧を求めて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を襲撃するようになった。これがいわゆる前期倭寇である。彼らにとって平和な時期の「交易」と、飢饉時や非常時の「略奪」は表裏一体の生業であり、この倭寇の存在が中世東アジアの国際関係を大きく動かす要因となっていった。
室町期の宗氏による日朝貿易の独占
室町時代に入ると、対馬の在庁官人から成長して島を支配するようになった宗氏(そうし)が、倭寇の取り締まりを条件にして新たな外交秩序を構築していく。1392年に朝鮮半島で建国された李氏朝鮮は、倭寇の鎮圧を日本側に強く求めた。これに応じた宗氏は、倭寇を統制下に置く代わりに朝鮮から通交権(貿易の特権)を獲得し、合法的な貿易商人へと転換させていった。
1443年(嘉吉3年)、宗貞盛は朝鮮との間に嘉吉条約(癸亥約定)を締結し、対馬から朝鮮へ派遣する貿易船(歳遣船)の数を年間50隻とするなどの取り決めを行った。これにより、宗氏は日本と朝鮮との外交・貿易における独占的な中継権を確立する。1510年に朝鮮南部の日本人居留地で起きた三浦の乱によって一時的に国交が断絶するものの、対馬にとって朝鮮貿易は死活問題であったため、その後も粘り強く交渉を行い、条件を制限されながらも通交を再開させた。このように、室町・戦国時代の対馬は日朝関係の結節点として独自の地位を築いていた。
豊臣政権下の対馬と朝鮮出兵の苦境
16世紀末、全国を統一した豊臣秀吉が明への征明の道案内を朝鮮に要求すると、日朝の間に立たされた対馬の宗氏は最大の危機を迎える。当時の当主である宗義智は、舅である小西行長とともに、武力衝突を回避すべく朝鮮側との和平工作に奔走した。彼らは秀吉の強硬な要求を和らげて伝え、なんとか外交的解決を模索したが、両国の思惑のズレを埋めることはできず交渉は決裂した。
結果として1592年より文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が開始されると、対馬は日本軍の最前線基地となり、宗義智らも先陣を切って朝鮮へ出兵せざるを得なかった。貿易によって成り立っていた対馬の経済は、この戦争によって壊滅的な打撃を受けた。江戸時代に入り、徳川家康の下で日朝国交回復が命じられると、宗氏は再び国書を偽造してでも和平を成立させるという捨て身の外交工作(柳川一件の遠因)を行い、以後の近世における日朝善隣外交の基盤を築き直すことになるのである。