大臣 (おおおみ)
【概説】
氏姓制度において、「臣(おみ)」の姓(カバネ)を持つ有力豪族の中から任じられた国政の最高職。ヤマト王権の政治体制が整備される過程で大連(おおむらじ)とともに設置され、大王(天皇)を補佐して国政を統括した。6世紀以降は蘇我氏が世襲して絶大な権力を握ったが、大化の改新に伴う官制改革で姿を消した。
ヤマト王権の発展と「大臣」の成立
5世紀頃、ヤマト王権の支配体制が全国的に拡大するに伴い、王権を構成する豪族たちの身分秩序を編成する氏姓制度(しせいせいど)が徐々に整備されていった。この制度下において、地名などを氏(うじ)の名とし、主にヤマト(大和国)周辺に古くから本拠地を置く有力な皇別氏族(天皇の系譜から分かれたとされる氏族)には「臣(おみ)」という姓(カバネ)が与えられた。この「臣」の姓を持つ氏族の代表者のうち、最も有力な者が大王(天皇)によって「大臣(おおおみ)」に任命され、国政を統括する最高責任者となった。
初期のヤマト王権においては、葛城氏(かずらき氏)や平群氏(へぐり氏)、巨勢氏(こせ氏)などが大臣を輩出した。彼らは天皇室との婚姻関係を通じて外戚として権力を握り、王権の意思決定において極めて重要な役割を果たした。
大連(おおむらじ)との並立と権力闘争
ヤマト王権における国政の最高職には、大臣のほかに「大連(おおむらじ)」が存在した。「連(むらじ)」は、特定の職掌(軍事や祭祀など)をもって王権に直属する神別氏族(神話の神々の子孫とされる氏族)に与えられた姓であり、その代表者が大連に任じられた。軍事を担う大伴氏や物部氏などがこれに就任し、政治の場においては大臣と大連が並立して大王を補佐する体制がとられた。
しかし、王権内部での権力闘争が激化するにつれ、大臣と大連の対立は避けられないものとなった。5世紀末から6世紀初頭にかけて、大臣を独占していた葛城氏や平群氏が大王家や大連(大伴氏)からの弾圧を受けて相次いで没落すると、大臣の地位は一時的に空位となる時期もあった。その後、新たな有力な「臣」として台頭してきたのが蘇我氏である。
蘇我氏による独占と権力集中
6世紀中頃、蘇我稲目(そがのいなめ)が大臣に就任すると、蘇我氏は王室との積極的な婚姻関係(外戚政策)と、渡来人と結びついた先進的な財政・外交手腕を背景に急速に勢力を拡大した。稲目の後を継いだ蘇我馬子(そがのうまこ)は、仏教の受容を巡って排仏派の大連・物部守屋(もののべのもりや)と激しく対立し、587年の丁未の乱(ていびのらん)で守屋を滅ぼした。大連を輩出してきた大伴氏はすでに失脚の憂き目に遭っており、物部氏の本宗家滅亡により大連の地位は実質的に消滅した。
これ以降、国政における最高職は大臣のみとなり、権力は蘇我氏一族に集中していく。馬子、蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)と4代にわたって大臣の地位は蘇我本宗家に世襲され、推古天皇や厩戸王(聖徳太子)の死後は、大王家を凌ぐほどの独裁的な権力を振るうようになった。
乙巳の変と「大臣」の終焉
蘇我氏による大臣の独占と専横は、王権の中央集権化を目指す王族や他の豪族たちの強い反発を招いた。645年、中大兄皇子や中臣鎌足らによるクーデター(乙巳の変)が発生し、大臣の蘇我入鹿が暗殺され、蝦夷も自害に追い込まれたことで、蘇我本宗家は滅亡した。
乙巳の変を契機として始まった大化の改新による新政府の樹立に伴い、旧来の氏姓制度に基づく単一の「大臣」という役職は廃止された。代わりに唐の律令制を模範とした新たな官制が導入され、国政の最高職は左大臣、右大臣、および内臣(のちの内大臣)へと再編・分割されたのである。後代の律令制下において「だいじん」と読まれる太政大臣・左大臣・右大臣などの役職は、このヤマト王権期の「大臣(おおおみ)」の系譜を継ぐものではあるが、制度的・歴史的背景は大きく異なっている。