高踏派 (こうとうは)
【概説】
明治時代後期、俗世間の生々しい現実から一定の距離を置き、知的で高雅な芸術的境地から人間や社会を批評・静観しようとした文学上の立場。当時、文壇を席巻していた自然主義文学の露悪的な現実描写や自己暴露に対する批判・対抗軸として台頭した。森鴎外や夏目漱石(余裕派とも呼ばれる)がその代表的存在であり、日本の近代文学に理知と芸術的品格をもたらした。
自然主義への対抗と「高踏」の立場
日露戦争後の明治40年(1907年)前後、日本の文学界では島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』などの登場により、自然主義が全盛期を迎えていた。自然主義は、人間の醜悪な欲望や赤裸々な現実をありのままに描くことを追求したが、次第にそれは作家自身の陰鬱な私生活を暴露する狭い世界(私小説の原型)へと傾斜していった。
こうした息苦しい文壇の風潮に反発し、知的な余裕や客観的な美、あるいは高い精神的倫理を重視したのが高踏派である。元来はフランスの詩人たち(パルナシアン)の芸術至上主義的な態度を指す言葉であったが、近代日本においては、現実の泥沼に深く入り込まず、知的・芸術的な高みから社会を「静観」しようとする文学的態度を総称する言葉として使われた。
夏目漱石の「余裕派」と森鴎外の「傍観者」
高踏派の代表的な作家として挙げられるのが、夏目漱石と森鴎外である。彼らは当時の文壇の主流派閥から離れ、独自の地位を築いた。漱石とその門下(高浜虚子ら)は、世俗の利害や道徳的な束縛から離れて、芸術的な境地に遊ぶ「低徊趣味(ていかいしゅみ)」や「非人情」の姿勢を唱えた。漱石の初期作品『吾輩は猫である』や『草枕』は、この「余裕派」としての立場が色濃く反映されたものである。
一方、陸軍軍医総監という官僚のトップとしての顔も持っていた森鴎外は、自然主義の主観的な自己告白を批判し、知性と教養に基づいた冷徹な科学的眼差しで社会を眺める「傍観者」の立場を堅持した。のちに鴎外が歴史小説(『阿部一族』『渋江抽斎』など)の執筆に傾倒していったのも、歴史という客観的事実の中に普遍的な人間精神の美や道徳を見出そうとする、きわめて高踏派的なアプローチの結実であったと言える。
日本近代文学史における歴史的意義
高踏派(余裕派)は、自然主義の一極集中による日本文学の矮小化を防ぎ、文学における表現の多様性と主観の自律性を守り抜いた点に大きな歴史的意義がある。彼らが示した、現実を批評的に観察する高い教養と知的なスタイルは、のちに大正期に台頭する「白樺派」の理想主義・人道主義や、芥川龍之介・菊池寛らに代表される「新現実主義(新思潮派)」の知的な文学表現へと継承されていくことになった。