飯田事件
1884年
【概説】
明治中期、長野県下伊那郡(飯田)において、激化する自由民権運動を背景に自由党員らが計画した武装蜂起未遂事件。松方財政下の不況による農村窮乏を背景に政府転覆を狙ったが、挙兵直前に計画が漏れて関係者が逮捕された。
松方デフレと自由民権運動の急進化
1881年(明治14年)に就任した大蔵卿松方正義によるデフレーション政策(松方財政)は、紙幣整理と緊縮財政を軸とした。これにより深刻な不況が発生し、特に養蚕・製糸業が盛んであった長野県下伊那地方(飯田地域)の農村経済は壊滅的な打撃を被った。こうした経済的窮乏を背景に、地方の自由党員や農民の間で現政府への不満が沸点に達した。当時、自由民権運動は言論闘争から実力行使へと転換しつつあり、1884年には各地で「激化事件」と呼ばれる武装蜂起が頻発していた。
挙兵計画の挫折と同時代における歴史的意義
飯田の自由党員であった長谷川源兵衛や新井正一らは、困窮する農民を組織し、名古屋鎮台(陸軍の拠点)を襲撃した後に東京へ進撃して政府を打倒する計画を立案した。彼らは同年に発生した秩父事件など他地域の蜂起と連携しようと試みたが、挙兵直前の11月中旬に計画が警察に漏洩し、実行に移る前に一斉検挙されて未遂に終わった。飯田事件は未遂ではあったものの、松方デフレという過酷な経済政策が地方民権運動をいかに過激な武装闘争へと追い込んだかを示す、明治民権運動史の激化期を象徴する出来事の一つである。