阿修羅像(興福寺) (あしゅらぞう)
【概説】
興福寺八部衆像の一つで、三面六臂(3つの顔と6つの腕)を持ちながら、少年のような憂いを帯びた表情が特徴の脱活乾漆像。聖武天皇の皇后である光明皇后が母・橘三千代の菩提を弔うために造立したものであり、写実性と国際色にあふれる天平文化の仏教美術を代表する最高傑作の一つである。
造立の背景と興福寺西金堂
奈良時代の天平6年(734年)、聖武天皇の皇后である光明皇后によって造立された。前年に没した母・県犬養橘三千代の一周忌に際し、その菩提を深く弔う目的で藤原氏の氏寺である興福寺に西金堂(さいこんどう)が建立された。阿修羅像は、この西金堂の本尊である釈迦如来像の周囲を護る眷属(従者)として作られた「八部衆像」の一つである。八部衆とは、古代インドの神々が仏教に取り入れられ、仏法を守護する護法善神となった8種の異類(天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睺羅伽)を指す。
脱活乾漆造がもたらした写実美
この像の大きな特徴は、脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)という技法で制作されている点にある。これは、まず粘土で大まかな原型を作り、その上に麻布を漆で何層も貼り重ねて張り子状にし、乾燥した後に内部の粘土を掻き出して空洞にする技法である。最後に内部へ木枠の骨組みを入れ、表面を木屎漆(こくそうるし:漆に木粉などを混ぜたもの)で細部まで緻密に造形していく。
この技法は非常に軽量な仏像を作ることができるうえ、指先の微妙な動きや柔らかな衣のひだ、繊細な表情など、極めて写実的で生命感あふれる表現が可能であった。しかし、高価な漆を大量に消費し、莫大な時間と手間がかかるため、国家の財政的庇護が厚かった天平時代にのみ集中的に作られ、その後は衰退していった。阿修羅像の少年のようにしなやかな体軀や複雑な表情は、この脱活乾漆造の特性を最大限に活かした結果といえる。
闘神から守護神へ:三面六臂と憂いの表情
古代インド神話において、阿修羅は帝釈天(インドラ)と激しい戦闘を延々と繰り広げる好戦的な悪神(非天)とされていた。仏教美術における阿修羅像も、通常は怒りに満ちた忿怒(ふんぬ)の形相で造形されることが多い。しかし、興福寺の阿修羅像は、眉をひそめ、どこか憂いを帯びた少年のような静謐な表情を浮かべている点が極めて特異である。
三面六臂(さんめんろっぴ)、すなわち3つの顔と6つの腕を持つ異形でありながら、そこに恐ろしさはなく、むしろ人間の内面的な葛藤や苦悩を表現しているかのように見える。正面の顔は仏の教えに出会って過去の罪を懺悔する姿、向かって左の顔は唇を噛みしめ煩悩と戦う姿、右の顔は自らの過ちを悲しむ姿を表しているとの解釈もある。荒ぶる心が仏法によって浄化され、純粋な求道心へと昇華していく精神過程を見事に造形化した仏像である。
天平文化における美術史的意義
8世紀前半の天平文化は、遣唐使を通じてもたらされた盛唐の文化や、シルクロードを経由した西域・インドなどの影響を強く受けた、国際色豊かで写実的な貴族・仏教文化であった。聖武天皇が推し進めた鎮護国家の思想のもと、造仏事業は国家的なプロジェクトとして展開された。
興福寺の阿修羅像をはじめとする八部衆像や十大弟子像は、東大寺法華堂(三月堂)の諸仏や唐招提寺の仏像と並び、この時代の仏教美術の頂点に位置づけられる。仏教の教理と高度な造形技術、そして光明皇后の母への深い祈りが結晶化したこの像は、日本のみならず東洋美術史においても傑出した評価を受け、現在も国宝として多くの人々を魅了し続けている。