闇市
【概説】
敗戦後の激しいインフレと深刻な物資不足の中、公定価格を無視して非合法に物資が売買された青空市場。戦時中からの統制経済が崩壊し、配給制度が機能不全に陥るなかで、都市部の庶民が命をつなぐための不可欠な生活基盤となった。のちの経済復興に伴って徐々に消滅、あるいは正規の商店街へと姿を変えていった。
敗戦直後の社会的背景と統制経済の崩壊
1945年(昭和20年)8月の敗戦直後、日本の主要都市は空襲によって焼け野原となり、極度の食糧不足と物資不足に見舞われた。政府は戦時中から続く価格統制や配給制度を維持しようとしたが、生産能力の壊滅や流通網の寸断により、正規のルートでの物資供給は完全に機能不全に陥っていた。
配給の遅配や欠配が常態化し、政府が定めた公定価格で手に入る食糧だけでは、到底生きていくことはできなかった。1947年(昭和22年)には、法律を守ってヤミ米を一切拒否し、配給食糧のみで生活しようとした東京地裁の山口良忠判事が餓死する事件が発生し、当時の正規の配給制度がいかに現実離れしたものであったかを象徴的に物語っている。このような極限状況のなかで、生きるために人々が頼らざるを得なかったのが闇市(ヤミ市)であった。
闇市の誕生と庶民の生活
闇市は、主要駅の駅前広場や焼け跡などを利用して自然発生的に形成された青空市場である。東京の新宿や上野、大阪の梅田などが特に有名であった。そこでは、農村から持ち込まれたヤミ米や野菜、軍の隠退蔵物資、日用品、衣類などが、公定価格をはるかに上回るヤミ価格で取引されていた。
また、粗悪な密造酒である「カストリ焼酎」や、進駐軍の残飯を煮込んだ「残飯シチュー」などを提供する飲食屋台もひしめき合い、連日多くの人々でごった返した。激しいインフレーションの進行により貨幣価値が下落するなか、人々は手持ちの衣類や家財道具を農村での「買い出し」で食糧と交換したり、闇市で売り払ったりして飢えをしのぐタケノコ生活を強いられた。
治安の悪化と警察の取り締まり
闇市は非合法な空間であったため、その運営や場所代(ショバ代)の徴収を巡って、的屋(テキヤ)や暴力団組織などが深く関与した。また、敗戦による警察権力の低下を背景に、様々な集団が利権を争い、流血の抗争事件も頻発したため、治安の悪化が深刻な社会問題となった。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令を受けた日本の警察は、経済統制違反として闇市の度重なる一斉取り締まり(ヤミ狩り)を実施した。しかし、闇市は庶民の生存に直結する「命の綱」であったため、いくら弾圧しても根絶することはできず、取り締まりと再建のいたちごっこが続いた。
経済復興と闇市の消滅
闇市が転機を迎えるのは、1949年(昭和24年)に実施されたドッジ・ラインによる超均衡予算の編成以降である。これにより戦後の悪性インフレが収束に向かい、さらに翌1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争による朝鮮特需で日本経済が本格的な復興軌道に乗ると、正規のルートで物資が出回るようになった。
物資供給の安定に伴い、価格統制や配給制度も順次撤廃されていき、ヤミ価格と公定価格の差が縮小することで闇市はその存在意義を失っていった。1950年代に入ると、都市の区画整理や美化運動が進む中で、露店は強制的に撤去されるか、あるいはバラックから恒久的な店舗へと改築され、正規の商店街や公設市場へと組み込まれていった。現在の上野・アメヤ横丁(アメ横)などは、この闇市を起源として発展した代表的な商店街である。