農工銀行
【概説】
1897(明治30)年の農工銀行法に基づき、地方の農工業の振興を目的として各府県に設立された特殊銀行。中央に設立された日本勧業銀行の姉妹機関として、地方の地主や中小産業に対して長期・低利の資金を融通する役割を担った。後に関東大震災や昭和恐慌による農村の疲弊を受けて経営が統合され、1944(昭和19)年までにすべて日本勧業銀行に吸収合併された。
設立の背景と日本勧業銀行との連携
日清戦争前後、日本は産業革命の本格化を迎えていたが、当時の一般商業銀行は短期の商業資金の融通に特化しており、設備投資や土地改良に必要な長期・低利の資金供給ルートが不足していた。特に地方の農業や養蚕業、伝統的な地方工業の近代化は急務であった。
こうした課題を解決するため、明治政府は1896(明治29)年に日本勧業銀行法および農工銀行法を制定した。翌1897(明治30)年、中央組織として大企業や大規模プロジェクトを対象とする日本勧業銀行が設立され、それと連携する形で、各府県に原則として1行ずつ「農工銀行」が設置された。これにより、中央から地方へと繋がる特殊金融(地権などを担保とする不動産金融)の体系が整備されることとなった。
地方開発における役割と限界
農工銀行は、主に農地の開墾・改良、養蚕・製糸業の近代化、地方道路の整備などに必要な資金を融資した。その資金源は、自行で発行する「農工債券」のほか、日本勧業銀行が引き受ける資金、そして大蔵省預金部(郵便貯金などを原資とする政府資金)などであった。
しかし、農工銀行の融資を受けるには担保となる強固な不動産(土地)が必要であったため、その恩恵を実際に享受できたのは主に寄生地主や地方の有力実業家に限られた。資金力に乏しい零細な小作農や一般農民には直接融資が行き届かず、地方の貧富の格差を固定化、あるいは助長する側面もあったことが指摘されている。
昭和恐慌と日本勧業銀行への統合
大正期から昭和初期にかけて、第一次世界大戦後の反動恐慌、関東大震災、そして昭和恐慌による農業恐慌が日本を襲うと、地方の農村経済は破綻寸前に追い込まれた。地主や農民の返済能力が低下したことで、農工銀行は巨額の不良債権を抱え、自主経営が困難に陥った。
この事態に対し、政府は1921(大正10)年の法改正によって農工銀行と日本勧業銀行の合併を容認し、救済に乗り出した。各府県の農工銀行は順次、日本勧業銀行の支店へと改組されていき、太平洋戦争最中の1944(昭和19)年、すべての農工銀行が日本勧業銀行へと統合を完了させ、その歴史に幕を閉じた。