超然内閣(非政党内閣)
【概説】
1889年の大日本帝国憲法発布直後に、当時の黒田清隆首相が表明した「超然主義」に基づく内閣の政治姿勢。政府は政党の動向や意向に左右されることなく、主権者である天皇の意思のみを基準として、超然とした立場で政治を行うべきであるとする立場である。明治時代前期から中期にかけて、自由民権運動の系譜を引く政党勢力に対する藩閥政府の基本方針となった。
超然主義宣言の背景と意図
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布され、日本はアジア初の本格的な立憲国家としての歩みを開始した。その翌日の2月12日、第2代内閣総理大臣の黒田清隆は、地方長官会議の席上で一つの重大な演説を行った。「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に依って国家の方向を行わなければならない」とする、いわゆる超然主義宣言である。
この宣言の背景には、翌1890年に予定されていた第1回衆議院議員総選挙と、それに伴う帝国議会の開設に対する藩閥政府側の強い危機感があった。自由民権運動の流れを汲む政党(民党)が選挙を通じて議会で勢力を持てば、国家の重要政策が政党の党利党略や大衆の迎合によって左右される恐れがある。そのため、内閣は国民や議会の多数派に対してではなく、主権者である天皇に対してのみ責任を負うべきだとする立場を明確にしたのである。このように、政党からの独立を掲げた内閣を超然内閣(非政党内閣)と呼ぶ。
初期議会における「超然」の実態と限界
しかし、黒田が掲げた「超然主義」は、議会が開設されると早くも大きな壁に直面した。大日本帝国憲法では、政府が新たな法律を制定したり、予算を成立させたりするためには、帝国議会(特に公選制である衆議院)の協賛(同意)が不可欠と定められていたからである。
1890年に開会された初期議会において、自由党や立憲改進党などの民党は「民力休養・政費節減(地租の軽減と行政の整理)」を激しく主張し、政府が提出した予算案に猛反発した。第1次山県有朋内閣や第1次松方正義内閣といった歴代の超然内閣は、議会を完全に無視して国政を進めることはできず、最終的には一部の政党員(自由党土佐派など)を切り崩して妥協したり、議会の解散や大規模な選挙干渉といった強硬手段に出たりと、泥臭い政治闘争を余儀なくされた。法制度上は議会から独立した「超然内閣」を標榜しても、現実の政治運営においては議会多数派である政党の動向に左右されざるを得ないという、根本的な矛盾を抱えていたのである。
政党勢力の台頭と超然主義の変質
初期議会での苦い経験や、日清戦争(1894年〜1895年)の挙国一致体制を経たことで、藩閥の元老たちも「もはや政党の協力なしに円滑な国家運営は不可能である」と認識を改め始めた。
その結果、第2次伊藤博文内閣が自由党の板垣退助を内務大臣に迎え入れたり、第2次松方内閣が進歩党の大隈重信を外務大臣に任用したりするなど、政府と政党による提携時代へと移行していく。さらに1898年(明治31年)には、大隈重信を首相、板垣退助を内相とする日本初の政党内閣、第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生した。極めつきは、かつて超然主義の牙城にいた伊藤博文自身が自ら政党の必要性を痛感し、1900年(明治33年)に立憲政友会を創立したことである。これにより、黒田清隆が宣言したような厳密な意味での超然内閣の理念は、明治中期には実質的に崩壊することとなった。
歴史的意義と大正デモクラシーへの接続
明治末期から大正時代にかけては、官僚や軍部を基盤とする藩閥勢力(桂太郎ら)と、衆議院の多数派政党(西園寺公望率いる立憲政友会)が交互に政権を担当する「桂園時代」が続いた。しかし、依然として元老による密室での首相推挙や、政党を軽視した非政党内閣の組閣は度々行われていた。
大正時代に入ると、国民の政治意識の向上に伴い、こうした時代遅れとなった超然主義的・藩閥的な内閣のあり方に対し、激しい批判が巻き起こる。1912年(大正元年)から始まった第一次護憲運動では、「閥族打破・憲政擁護」のスローガンのもと、第3次桂内閣がわずか50日余りで退陣に追い込まれた(大正政変)。そして1918年(大正7年)、米騒動を機に発足した原敬内閣によって、陸海軍・外務大臣を除く全閣僚を立憲政友会員で固める本格的な政党内閣が実現した。これにより、明治国家の出発点において政府の絶対的方針とされた「超然内閣」の時代は名実ともに終焉を迎え、日本政治は政党政治の時代へと大きく転換していったのである。