藤原明子 (ふじわらのあきこ)
829年〜900年
【概説】
平安時代前期の皇妃。藤原良房の娘であり、文徳天皇の女御となって後の清和天皇(惟仁親王)を生んだ人物。藤原北家が皇室との婚姻関係を通じて権力を掌握する「外戚政治」の端緒を開いた。
惟喬親王との立太子争いと清和天皇の誕生
文徳天皇には、紀名虎の娘である紀静子との間に第一皇子・惟喬親王がおり、天皇自身も彼を寵愛して東宮(皇太子)に立てることを望んでいた。しかし、当時の政権の実権を握りつつあった右大臣・藤原良房は、自身の娘である明子が文徳天皇との間に生んだ第四皇子・惟仁親王の即位を強く望んだ。良房の政治的圧力の結果、惟仁親王は生後わずか9ヶ月で皇太子に立てられることとなった。この強引ともいえる立太子劇は、藤原氏の権勢が皇室の意向をも凌駕しつつあったことを象徴している。
外戚政策の確立と摂関政治の端緒
858年に文徳天皇が急逝すると、惟仁親王がわずか9歳で清和天皇として即位した。これにより、藤原良房は天皇の母方の祖父(外祖父)という地位を獲得し、幼少の天皇を補佐することを名目に政治の実権を完全に掌握した。これはのちに良房が人臣最初の摂政に就任する直接の契機となり、藤原氏による摂関政治の土台が築かれることとなった。藤原明子は「染殿后(そめどののきさき)」と称され、藤原北家が天皇家と血縁関係を結んで国政を主導する「外戚政策」の極めて重要な架け橋としての役割を果たしたのである。