納屋制度 (なやせいど)
【概説】
明治時代の鉱山、特に九州の炭鉱などで広く行われた、前近代的な間接労働管理制度。納屋頭(労働親方)が労働者を「納屋」と呼ばれる宿舎に収容して暴力的に支配し、賃金の中間搾取を行った。資本主義の発達期において、極めて非人道的な過酷労働を強いる温床となった。
産業革命と納屋制度の成立背景
明治政府の殖産興業政策にともない、日本の産業革命は急速に進展した。これによって、エネルギー源となる石炭や、主要な輸出資源であった銅などの鉱物需要が急増することとなる。しかし、当時の鉱山労働は「地獄極楽」と形容されるほど極めて過酷かつ危険なものであったため、通常の募集では必要な労働力を確保することが困難であった。
そこで、鉱山を経営する政商や財閥は、納屋頭と呼ばれる労働供給業者(飯場頭)を通じた間接雇用の仕組みを利用した。納屋頭は、冷害などで困窮した農村の出身者や、前借金を抱えた都市の浮浪者などを集めて鉱山に送り込み、自ら経営する「納屋(または飯場)」に住まわせて労働を管理した。企業側にとっては、労働者の募集や日常の管理をすべて納屋頭に丸投げできる便利なシステムであった。
「高島炭鉱の惨状」と非人道的な実態
納屋制度のもとでの労働環境は、極めて非人道的なものであった。労働者たちは「納屋」や「タコ部屋」に監禁され、逃亡を防ぐための厳しい監視下に置かれた。労働時間は1日12時間を超えることも珍しくなく、坑内での過酷な作業に対し、納屋頭やその配下から日常的な暴力(鞭打ちなど)が振るわれた。さらに、賃金は納屋頭を通じて支払われるため、多額の天引きが行われたほか、独自の代用貨幣(炭鉱札など)での支払いや、納屋頭が経営する売店での高額な購買義務によって、労働者は前借金から抜け出せない仕組みになっていた。
こうした実態が広く知れ渡る契機となったのが、1888年(明治21年)の雑誌『日本人』による「高島炭鉱の惨状」の告発である。長崎県の高島炭鉱(三菱経営)における地獄さながらの労働実態が世に暴露されると、社会的な批判が沸騰し、日本における労働問題・社会問題の先駆けとして大きな注目を集めることとなった。
制度の解体と近代労働管理への移行
高島炭鉱でのスキャンダルや、各地で多発した炭鉱暴動(労働争議)は、企業側にとっても無視できないリスクとなった。また、日露戦争期から1910年代にかけて鉱山技術の機械化が進むと、未熟練労働者を暴力で酷使するよりも、技術を身につけた労働者を定着させて生産性を高める必要性が生じた。
このため、三井や三菱などの大財閥は、納屋頭を排除して会社が労働者を直接雇用・管理する「直営化(直轄化)」へと舵を切った。さらに、1911年(明治44年)に制定された工場法の施行や、大正期における労働運動の高まりも手伝い、前近代的な納屋制度は次第に姿を消していくこととなった。